改訂新版 世界大百科事典 「寺請制度」の意味・わかりやすい解説
寺請制度 (てらうけせいど)
江戸時代に行われた宗門改めにおいて,禁制された宗派であるキリシタンや日蓮宗不受不施派などの信徒でないことを,檀那寺が証明する制度。江戸初期からみられるが,それらは特定の必要に応じて臨時に寺僧が檀家たることを証明する寺手形様式のものが多かった。たとえば若狭小浜藩の,1635年(寛永12)の五人組の連判手形に〈頼候寺かた〉(檀那寺)に請印をさせるような,宗門人別改帳の先駆様式があらわれてくる。その前提には寺檀関係の一般的成立があった。こうして各地で寺請が始まってくると,寺側でも檀家を明確にするため檀家帳が作成されたようで,大坂菊屋町の1639年の宗門人別改帳には〈御寺之帳〉と呼ばれるものが知られ,加賀藩では1644年の宗門改めには〈旦那吟味之帳〉が作成されている。それには〈年忌志等も仕,聴聞の為参詣仕候而法義相守り申候,子々孫々ニ至り,流義替申まじく候〉という前書があり,檀家が連判する様式をとっている。
このような寺檀関係にもとづく寺請が宗門改めに有効であることが広く認識された結果,1671年(寛文11)に宗門人別改帳制度による宗門改制度が確立すると,寺請はその不可欠の要素となった。そのとき新しく問題になったのは,寺請を行う側の寺の認定ということである。宗教的には,本山本寺が寺号を認定したものが寺であろうが,そうした寺や僧が,行政的には士農工商の四身分とは別の超身分に属し,寺社奉行の統括下におかれることになるから,幕府・藩側は本山による寺としての認定にかかわりなく,寺(僧)を認定しなければならない。寛永期(1624-44)以来たびたび幕府が発した新寺禁止令は,寺を新しく認めず,一方では寺としたものの台帳を作成して寺を確定することによって,寺請発行の主体を明確にしようとしたものである。寛文期(1661-73)に水戸,岡山,会津などの諸藩の寺院整理は,宗門人別改帳制度に伴う寺請寺院(宗判寺)の確定をめざすものであった。以来各藩でもこうした方向が進められ,これをふまえて,幕府は1692年(元禄5)に新寺禁止令を出し,諸宗本山に命じて末寺帳を作成させ,これをもって古跡寺院すなわち寺請寺院を確定した。これにもれた寺院,あるいはこれ以降寺号を獲得した寺院は,檀家を持っていても寺請を行うことができなかったので,宗判権獲得,つまり寺号公認の動きが各地で起こり,なかには国切寺号と称して,領内のみに通用する寺請を認めた藩もあった。
→寺檀制度
執筆者:大桑 斉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報