不破関跡(読み)ふわのせきあと

日本歴史地名大系 「不破関跡」の解説

不破関跡
ふわのせきあと

[現在地名]関ヶ原町松尾

律令制下に設置された関で、とくに東国に対する軍事的防衛基地として東山道美濃不破郡内に置かれた。東海道鈴鹿すずか(現三重県鈴鹿郡関町)・北陸道愛発あらち(現福井県敦賀市)とともに三関と称され、「令義解」軍防令の置関条に「其三関、謂、伊勢鈴鹿、美濃不破、越前愛発等是也」とある。史料上は美濃関(伊場遺跡出土木簡、「続日本紀」天平宝字元年七月二日条)、国城(同書天平一二年一二月四日条)ともみえる。遺構は、昭和四九年(一九七四)から同五二年にわたる発掘調査により、外郭線に相当する土塁が北・東・南の三方を囲んでいること、関域は約一二万平方メートル以上に及ぶことが明らかになった。うち松尾まつお地内の二七〇平方メートルは県指定史跡になっている。

〔成立と規模〕

三関の設置時期について「一代要記」は天武天皇元年(六七二)三月とし、「帝王編年記」は同二年七月とする。壬申の乱に際し、大海人皇子がその初動にあたって不破道をふさぐことに成功し(「日本書紀」天武天皇元年六月二二日条)、のちの戦局を優位に進めたことはよく知られている。この不破道と当関の関連は判然としないが、不破の地が政治的軍事的により重要視されたことは確かであろう。当関がすでに天智朝の時代に成立していたとする説もあるが、やはり壬申の乱の経験を踏まえてのことと推測するほうが妥当であろう。不破なる地名も、その語意からして壬申の乱後に生じたものと考えられている。三関が警察的機能と軍事的機能を兼備するものとして法的に確定されるのは大宝令によるとされ、当関の整備と実質的な機能もそれ以後に展開したことになる。その実態を正史などに示しはじめるのは八世紀に入ってからで、「続日本紀」和銅元年(七〇八)三月二二日条に、勅により三関国の国守(護衛の武官)二人を給したとある。また霊亀三年(七一七)九月には元正天皇の当耆たぎ(多藝郡)醴泉への行幸(同書同月二〇日条)などがあり、関の整備が進められていったものと考えられる。なお関整備の積極的な推進者として当時美濃守であった笠朝臣麻呂をあげる見方もあり、同氏は御野から美濃への国名表記の改定、美濃平野部の広域条里の設定、吉蘇路の開通などに豪腕をふるった。

発掘調査の所見からも当関の創建は七世紀末から八世紀初頭とされ、八世紀中葉には畿内および国衙建築の影響をうけた造営ないし改造が行われたと推定されている。遺構は松尾地区の西端、藤古ふじこ川を見下ろす台地の辺縁部、大木戸おおきど付近に所在。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報