19世紀中ごろ以後,欧米の政治的経済的侵略と学術文化の伝来により,中華意識が動揺した中国において,知識階級の間に形成された欧米学術受容のための思想。中体西用は〈中学(中国の伝統的学術)を体(根本)とし,西学(西洋の近代的学術)を用(応用)とする〉を簡略にした語。その最初の提唱者は馮桂芬(ふうけいふん)で,1861年(咸豊11)〈中国の五倫五常の名教を根本とし,諸国の富強の術を補助とせよ〉と主張した。これは,李鴻章ら洋務派官僚にしだいに受け入れられ,軍事を中心とする西欧の科学技術を導入する際の指導理念となった。しかし,欧米列強の相次ぐ侵略と中国の敗北,ことに日清戦争の敗北によって,西学の内容を,より拡大して政治制度をも含めようとする鄭観応らの思想が現れ,やがて,根本である〈中学〉そのもの,すなわち伝統的政治制度を改革しようとする変法論が台頭し,康有為らによる明確な君主立憲制の要求となる。張之洞の《勧学篇》(1898)にみえる〈旧学を体とし,新学を用とする〉の主張は,当時の急進的な思想傾向に歯止めをかけようとするものだったが,時勢はすでに中体西用論の段階を超えていた。しかし,その後,中体西用論的発想はまったく消えたのではなく,1935年の陶希聖ら10教授による〈中国本位文化建設宣言〉,70年代から今日にいたる〈四つの現代化〉論も,その根底に中体西用論がひそんでいると考えられる。なお,〈中体西用〉ほど思想的緊迫はないとはいえ,日本語の〈和魂漢才〉あるいは〈和魂洋才〉も類似の考えを示すものであろう。
執筆者:坂出 祥伸
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清(しん)末の洋務運動(1860~90)の基本思想。アヘン戦争、アロー戦争、太平天国鎮圧の過程で西欧の圧倒的武力を体験した中国では、開明的な官僚や知識人の間に、西洋文明を摂取して富国強兵を図ろうとする動きが起こった(洋務運動)。彼らは、当時根強く残っていた夷狄(いてき)排撃・伝統固守の勢力に対して、西洋文明導入を合理化するために、中華の伝統文明が「体」(本体、根本理念)であり、西洋文明は「用」(実用、応用)にすぎず(中学為体、西学為用)、したがって、これを導入することは中華の道を損なうものではなく、反対にこれによって富国強兵を実現することで聖賢の道統を保持できると主張した。これがいわゆる中体西用論である。この論理は西洋文明摂取に大きく道を開き、のちには軍事技術にとどまらず、行政・教育制度の改革にまで拡大されたが、やがて民権論が台頭してくると、君臣の道こそ「中学」の精髄であるとしてこれを抑圧する役割を担うようになった。
[丸山松幸]
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…そして魏源を継承して,軍事を中心とする殖産興業を目的とした李鴻章らの洋務運動が推進された。その指導理念となったのは,馮桂芬(ふうけいふん)の〈中体西用論〉である。江南製造総局翻訳館(1868設立)による膨大な西書翻訳事業も,その理念にもとづいている。…
…その間,西洋の科学技術の優位をみとめて軍需,紡績工場を設け,ドイツ式の新式軍隊をつくるなど殖産興業,富国強兵に尽力した。そうした開明的官僚ではあったが,西洋文明の基盤となっている民主思想や議会制度に対しては拒否反応を示し,中国の伝統を重んじる〈中国を体とし西洋を用とする〉という,中体西用論をのりこえることができなかった。だが彼が海外に送った留学生のなかから,清朝打倒を主張する革命家が輩出,その死の2年後,共和制の中華民国が誕生した。…
…翰林院編修を授けられたが,父母を相次いで失うとともに,その間,太平天国に郷里がまきこまれたこともあって,仕官の意を断ち,李鴻章の幕友として,洋務運動に協力した。中体(ちゆうたい)西用論の立場から,西洋の科学技術を積極的に導入し,かつ中国人がみずから製造修理の能力を養うことをも力説した。これは外国人にだけすべてを頼る洋務論の水準を超えたものであった。…
※「中体西用論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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