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中原悌二郎 なかはらていじろう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中原悌二郎
なかはらていじろう

[生]1888.10.4. 釧路
[没]1921.3.28. 東京
彫刻家。9歳のとき叔父の養子となったが,画家を志してひそかに上京,1906年白馬会研究所に入り,07年太平洋画会研究所に移る。のち荻原守衛の影響で彫刻に転じ,新海竹太郎に師事。 16年再興日本美術院に入り,18年同人となる。大正期院展に新鋭ぶりをうたわれたが 34歳で夭折した。主要作品『老人の首』 (1916,東京芸術大学) ,『若きカフカス人』 (19,同) ,『憩える女』 (19) 。 70年に中原悌二郎賞が設定された。

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デジタル大辞泉の解説

なかはら‐ていじろう〔‐テイジラウ〕【中原悌二郎】

[1888~1921]彫刻家。北海道の生まれ。荻原守衛(おぎわらもりえ)に傾倒し、強い影響を受けた。大正期の彫刻界の代表的存在。作「若きカフカス人」など。

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百科事典マイペディアの解説

中原悌二郎【なかはらていじろう】

彫刻家。釧路生れ。1905年上京して洋画を学んだが,荻原守衛の感化を受けて彫刻に転じ,新海竹太郎に師事。ロダンを崇敬し,力強くみずみずしい作品を太平洋画展や院展に出品。
→関連項目藤井浩佑

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

中原悌二郎 なかはら-ていじろう

1888-1921 大正時代の彫刻家。
明治21年10月4日生まれ。38年画家をこころざし上京,太平洋画会研究所などでまなぶ。荻原守衛(おぎわら-もりえ)の感化で彫刻に転じ,大正5年院展出品の「石井鶴三像」で樗牛(ちょぎゅう)賞。大正10年3月28日死去。34歳。北海道出身。作品はほかに「憩へる女」「若きカフカス人」など。
【格言など】絶対的な写実主義でありたい(論説「彫刻家になつた動機及びその態度」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

中原悌二郎

没年:大正10.3.28(1921)
生年:明治21.10.4(1888)
明治末から大正期の彫刻家。北海道釧路の港町に生まれ,画家を志して明治38(1905)年上京。白馬会洋画研究所,太平洋画会研究所に学ぶが,41年,荻原守衛の作品に感銘を受け,43年4月の守衛死去後間もなく彫刻に転向する。太平洋画会研究所では彫刻家新海竹太郎に師事する一方,新宿中村屋に集う芸術家グループの一員となり,洋画家中村彝らと交遊。43年,第4回文展に「老人頭像」で初入選する。45年,初めてロダンの実作を見て啓示を受けるが,その後体調を崩し,一時帰郷。大正4(1915)年再び上京し,5年日本美術院彫刻部に参加,同年第3回院展に「石井鶴三像」を出品して樗牛賞を受けた。6年,第3回院展試作展に「墓守老人像」を出品して奨励賞を受賞。7年院展同人となり,翌年,代表作となった「若きカフカス人」を院展に出品した。ロダンからは感情表現よりも,むしろ形体把握の方法を学び,写実に基づきつつも細部にこだわらない,堅固な量感を持つ作品を残した。狭い借り部屋で糊口をしのぐため,ペンキ絵制作をする一方,彫刻研究に打ち込む。6年に喀血。一時,小康を得たが,2年後,病が進み32歳で死去した。制作に対する真摯な姿勢から,納得のいかない作品は自ら破壊したため遺作は少ないが,いくつかは長野県穂高町の碌山美術館で見られる。没後の院展では,日本美術院を会場に遺作展が開かれ,『中原悌二郎作品集』が同院によって刊行された。遺稿は『彫刻の生命』として刊行されている。

(山梨絵美子)

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世界大百科事典 第2版の解説

なかはらていじろう【中原悌二郎】

1888‐1921(明治21‐大正10)
彫刻家。北海道釧路市に生まれる。1905年画家を志して上京,白馬会研究所で中村彝(つね)を知り,07年太平洋画会研究所に転じ,欧米留学から帰国した荻原守衛を中村とともに訪ね,彫刻への理解を深めた。荻原の死後に彫刻に転じ,太平洋画会研究所で新海竹太郎の指導をうけ,第4回文展に《老人の頭像》が入選した。12年白樺美術展でロダンの実作に接し深く啓発された。16年再興日本美術院彫刻部に入り石井鶴三,佐藤朝山らと研究を続け,第3回院展の《石井氏の像》で樗牛賞をうけ,同人となった。

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大辞林 第三版の解説

なかはらていじろう【中原悌二郎】

1888~1921) 彫刻家。北海道生まれ。画家を志すが、荻原守衛の影響を受けて彫刻に転向。代表作「若きカフカス人」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中原悌二郎
なかはらていじろう
(1888―1921)

明治~大正の彫刻家。北海道釧路(くしろ)に生まれる。1905年(明治38)画家を志して上京、白馬会(はくばかい)の葵橋(あおいばし)洋画研究所や太平洋画会研究所に学び、中村彝(つね)と親交を結んだ。荻原守衛(おぎわらもりえ)の強い影響を受け、その死後彫刻に転じた。太平洋画会研究所で新海(しんかい)竹太郎の指導を受け、10年第4回文展で『老人の首』が初入選したが、12年白樺(しらかば)美術展でロダンの実作に接し、深く啓発された。16年(大正5)再興日本美術院研究所に移り、石井鶴三(つるぞう)、佐藤朝山(ちょうざん)(玄々(げんげん))らと研究を続け、第3回院展の『石井氏の像』で樗牛(ちょぎゅう)賞を受け、18年同人となった。『若きカフカス人』『平櫛(ひらくし)氏の首』など寡作で、33歳で没したが、堅牢(けんろう)な構築性と豊かな空間の広がりをもち、大正期彫刻の代表的存在である。遺稿集に『彫刻の生命』があり、その業績を記念して、中原悌二郎賞が70年(昭和45)に設定された。[三木多聞]
『中原信著『中原悌二郎の想出』(1981・日動出版部)』

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世界大百科事典内の中原悌二郎の言及

【明治・大正時代美術】より

…文展では審査員の新海竹太郎,受賞者の朝倉文夫が注目されたが,08年ロダンに師事して帰国したばかりの荻原守衛が,ロダン風の生命感にあふれた表現により識者の評価を集める。荻原は名作《女》(1910)を遺して夭折したが,戸張孤雁,中原悌二郎,堀進二(1890‐1978),石井鶴三ら多くの後進に与えた刺激は大きかった。また高村光雲の長男光太郎は欧米に留学,ロダンに傾倒して09年に帰国し,《ロダンの言葉》を翻訳して,実作による荻原とともにロダン紹介に大きな役割を果たした。…

※「中原悌二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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