中国のキリスト教(読み)ちゅうごくのキリストきょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中国のキリスト教」の意味・わかりやすい解説

中国のキリスト教
ちゅうごくのキリストきょう

中国におけるキリスト教の宣教は,7世紀のネストリウス派宣教師阿羅本 (あらほん) によって始められ,唐時代に景教の名で広まったが,会昌5 (845) 年迫害を受け,端拱1 (988) 年消滅した。大秦景教流行中国碑 (781) は景教隆盛時の記録である。次いで元時代に,教皇インノケンチウス4世により宣教師カルピーネ,ルブルックらが派遣された。至元 31 (1294) 年に派遣されたモンテコルビーノのジョバンニは多数の改宗者の獲得に成功した。しかし多くの障害によって宣教は事実上廃絶されるにいたった。 16世紀になってイエズス会士マテオ・リッチおよびマテオ・ルジェリは北京にいたり (1595) ,清朝厚遇を受け,中国宣教が再開された。万暦 44 (1616) ,天啓2 (22) ,康煕3 (64) 年と迫害が続いたにもかかわらず,18世紀初頭の信徒数は 30万に達したという。しかし,孔子崇拝の許容をめぐって起った,いわゆる典礼論争において,寛容派の立場がローマによって否定されたことが契機となって宣教は絶えざる迫害にさらされ,やがて消滅した。 19世紀,清朝が南京条約 (1842) ,天津条約 (58) などによって西欧諸国に門戸を開くと,フランス人宣教師を中心に大規模なカトリックの宣教が再開され,中国人司祭の養成,中国人司教区の設立を目指す教会組織の整備も進んだ。しかし西欧列強の力を背景にした宣教の推進は,義和団事変にみられるように,国民感情と中国教会との間に溝をつくり,しこりを残すことになった。ともあれ第2次世界大戦までの間,中国は最も有力な宣教地となり,1939年には 317万の信徒,46年には 20の大司教区と 85の司教区を数えるにいたった。一方プロテスタント教会による宣教では,R.モリソン嘉慶 12 (07) 年には初めて中国に歩をしるし,聖書翻訳によって宣教の基礎をつくったのち,相次いで多数の宣教師の派遣が行われ,信徒数も咸豊 10 (60) 年の約 1000から 1914年には 23万を数えるにいたった。この宣教の特色は,教育事業と医療伝道に力が注がれたことで,莫大な犠牲と努力の結果,49年までに信徒数は 140万に達した。戦後の中国革命の成功により中華人民共和国が成立すると,カトリック,プロテスタント両教会の宣教は大きな打撃をこうむり,宣教師,聖職者追放投獄,教会財産の没収,施設の閉鎖,公的活動の全面禁止などが相次ぎ,中国教会からは事実上信仰の自由が奪われた。一方,政府の支持による民族主義的な三自愛国運動 (→三自運動 ) が起り,この運動に参加したカトリック聖職者たちは,ローマからの破門を受けながらも,独自の司教叙階を行うなどの動きをみせたが,文化大革命開始以後は姿を消した。しかし,いわゆる四人組の失脚後の政治情勢の変化に伴い,一部には宗教活動の復活が伝えられている。

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