改訂新版 世界大百科事典 「中川喜雲」の意味・わかりやすい解説
中川喜雲 (なかがわきうん)
生没年:1636?-1705(寛永13?-宝永2)
仮名草子作者,俳諧師。名は重治。山桜子と号する。父中川仁右衛門重定の出身は丹波の郷士で,いったんは仕官したが,松永貞徳や小堀遠州らと交わり,狂歌や俳諧をよくする風流人であった。喜雲もその影響を受け,若くして貞徳の門に入った。貞徳没後はその後継者安原貞室に近づき,同人撰《玉海集》には父重定は1句,喜雲は6句入集している。早くに京都に出て医師となった喜雲は,その医業による生活だけでは満ち足りないなにものかを,俳諧や狂歌で,さらには名所記などの仮名草子制作で満たしていたのではなかろうか。その鬱々たる毎日の根底には,〈昔予若冠のころ愚父とさがにまかりし事有,いにしへはこゝの嵐山の城主はわが先祖のものなりしが,今は城郭さへあとなく,石ずへ井戸のかたちばかりのこれり〉と自著《私可多咄(しかたばなし)》序に書き記したように,零落した家門の栄誉への執着と感傷があったと思われる。
1658年(万治1)刊行された処女作の名所記《京童(きようわらべ)》は,のちの名所記流行の先駆となるものであり,実地に足を運んだ者でなければ書くことのできない詳細な記述は,地誌には欠くべからざる実用性をもたらすものであった。しかし,一方《京童》の盛名は,そのような実用性だけでなく,諧謔精神に基づいた文芸性がいま一本の柱であった。続いて翌59年には鎌倉の名所記《鎌倉物語》を,67年(寛文7)には京都および摂津,山城,安芸等の名所記《京童跡追》を,次いで71年には旧著を再編纂した《都案内者》を出版した。また一方,名所記以外では,すでに触れた万治2年(1659)9月の序をもつ《私可多咄》を刊行した。ただし,内容はすべてが仕形咄そのものではなく,和漢の故事に題材を求めたり,狂歌,俳諧,軽口などを雑然と集成したものである。そのころすでに広島に定着した喜雲は,以後は,広島の俳諧師として世に知られた。
執筆者:松田 修
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報