中戸村(読み)なかとむら

日本歴史地名大系 「中戸村」の解説

中戸村
なかとむら

[現在地名]黒滝村大字中戸

寺戸てらど村の東にあり、黒滝川・川谷かわだに川の流域を占める。上平かみだいら・中戸・しずく川戸かわどの四字からなる。文禄五年(一五九六)の竹役催課状(楠山家文書)には「クロタキカウノ内ナカト」とみえる。慶長郷帳・元和郷帳には「中川戸村」と書かれている。黒滝郷のうち。慶長郷帳では村高九二・三一二石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地で二五二・六五七石と倍増以上となった。

中戸村
なかとむら

[現在地名]鈴鹿市いちみや

鈴鹿川の南岸、高岡たかおか村の東にあり、南方には広大な条里制水田が広がっている。中跡直なかとのあたえ(旧事本紀)中止なかと(平城宮出土木簡)、河曲郡中跡郷(和名抄)、式内奈加等なかと神社(延喜式)の所在など、いずれも村名とかかわりがあり古い集落であることがわかる。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)に「永藤御厨 没官地鎌倉家知行 件御厨、応保二年建立、供祭物 上分米二石、起請雑用料八石」とある。

中戸村
なかとむら

[現在地名]関宿町中戸

西高野にしごうや村の南に位置する。西を江戸川が流れ、東を日光東往還が通る。地内には真宗坂東七大寺の一つ常敬じようきよう寺があり、「天文日記」天文八年(一五三九)二月二七日条には「坂東中戸 常敬寺」とみえる。永禄八年(一五六五)と推定される三月七日付簗田晴助書状(古簡雑纂)によると、同月北条氏康は晴助が城主を勤める関宿城を攻撃した際、城の周りには陣を布かずに五里ばかり離れた「号中戸所」に陣取ったという。

中戸村
なかとむら

[現在地名]新庄町大字中戸

べんしよう村の西方にあり、欠年の金峯山免田田数注進状(天理図書館保井文庫)に「葛下郡廿七条八里 廿坪 一反 次郎 ナカトウ」とあるナカトウの地で寛永郷帳には「中東」とある。江戸時代初期、新庄藩(桑山一晴)領。村高は五一八・九七石。

中戸村
なかどむら

[現在地名]八郷町中戸

難台なんだい山の南西麓にあり、西は太田おおた村・小見おみ村。戦国末期に佐竹氏の支配下に入り、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高弐百四十四石五斗五升 此内五十一石六斗 荒 中戸」とある。江戸初期に小田原藩領となり(寛文朱印留)、のち天領となる(各村旧高簿)元禄郷帳の村高は四四三石余、文政一二年(一八二九)には七八八石余に増加する(「柿岡村外五十二組合村役人連印」綿引家文書)

中戸村
なかとむら

[現在地名]金沢市中戸町

天池あまいけ村の西に位置。西方、山川やまご村との間を蛇行しながら北流するうち川が、当村北西端で犀川左岸に合流する。正保郷帳では天池村と併記され、二村合せて高三八五石。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二九三石、免五ツ八歩で、ほかに山役三二一匁・蝋役六匁・綿役二匁・漆役三匁の小物成があった(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数一五・百姓数一九(高免付給人帳)

中戸村
なかとむら

[現在地名]愛東町中戸

愛知川右岸、いもと村の北西に位置する。中世鯰江なまずえ庄の一部と推定される。慶長二〇年(一六一五)か元和三年(一六一七)に彦根藩領となったと推定され、寛永石高帳によれば高三五四石余とあるが、これは二五四石余の誤記と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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