中西村(読み)なかにしむら

日本歴史地名大系 「中西村」の解説

中西村
なかにしむら

[現在地名]池田町中西

北流する吉野川の東岸に沿い、東は池田村、南は漆川しつかわ村、北西の吉野川対岸は白地はくち村。中世は田井たい庄中西郷として推移した。正平二〇年(一三六五)正月五日の某袖判氏行奉書写(徳善文書)に「田井庄中西郷之内得善名」とみえ、同地が南朝方の阿波守為仲に与えられている。ところが同年八月二七日の為仲奉書写(同文書)によると、同地の土豪とみられる得善権守貞宗が為仲の拝領に異を唱えたため、為仲は得善名拝領の御教書を貞宗に渡している。得善は徳善とも記し、西祖谷山にしいややま村の大歩危おおぼけの地に通称として残る。康暦二年(一三八〇)一二月には、阿波守正氏(細川政氏)が中西郷のうち轆轤師・得銭(得善か)を国藤治部允に安堵している(同月二五日「阿波守正氏安堵状写」徳善文書)川崎の三所かわさきのさんしよう神社蔵の大般若経巻三九〇奥書には、応永一〇年(一四〇三)六月上旬日付で「阿州三好郡太井庄中西郷南河崎大明神」などとみえる。

慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「中にし」とみえる。


中西村
なかにしむら

[現在地名]中津江村合瀬ごうせ

現中津江村域の北部から西部にかけての一帯を占め、梅野うめの川流域の中西・長谷ながたに藤蔵とうぞうはる山本やまもと、その支流域の石場いしば高迫たかさご鯛生たいお川流域の才野さいの・鯛生・いち(一ノ瀬)宮原みやばるかきたになどの集落がある。「豊後国志」に支郷として柿谷がみえる。鯛生の西の筑後国境に竹原たかはら峠があり、柿ノ谷を過ぎて南に向かうと肥後国境の穴川あなかわ峠、西の地蔵元じぞうもとの集落をさらに行くと同国境の宿しゆく峰尾みねお峠に至り、北方に三国みくに山がそびえる。

正保郷帳では梅野村の内であったと考えられる。元禄郷帳に村名がみえ、高一八六石余。


中西村
なかにしむら

[現在地名]白鳥町中西

陰地おんじ村の北、長良川の支流牛道うしみち川の中流右岸、阿多岐あたぎ川との合流点西方の河岸段丘上に立地。戦国時代、原口はらぐち城に原友三郎が居城した。同城跡は村の北東、標高八四三メートルの山頂にあり、東西南の三面は断層をなし、北は切立きつたて(現高鷲村)西替にしがい山に続く自然の要害に立地する。大手は西麓の西坂口で、搦手は東方の清水の険である。山頂に数段の平地が残る。城主原友三郎は鷲見氏の襲撃を受け逃亡途中、阿多岐川のなつご淵に転落死したという(高鷲村史)


中西村
なかさいむら

[現在地名]中之島村中西

刈谷田かりやだ川左岸にあり、対岸は三林さんばやし(現見附市)新発田藩の慶長一〇年(一六〇五)の給知方村々高目録(新発田市史資料)に「中さい村」とあり、毛付一六石九斗余・荒一七石八升余で過半が荒蕪地であった。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によると、三軒に四斗五升の炉役が課されている。元和二年(一六一六)の当村羽賀角助宛開発免状(羽賀家文書)に「中細村荒地之事(中略)弐反遣候間ひらき上て所納可被仕候」とある。


中西村
なかにしむら

[現在地名]相良町中西

黒子くろこ村の北西に位置し、村の中央やや南寄りを萩間はぎま川が東流する。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高一五七石余。正保二年(一六四五)幕府直轄領から掛川藩預となる(掛川預一万石郷村覚)。正保郷帳では田方一一四石余・畑方一四石余、掛川藩預、ほかに滝淵庵領二石・藤白山(現諏訪神社)領一石がある。元禄郷帳では高一五〇石余。


中西村
なかにしむら

[現在地名]緑区中西町

茂呂もろ村の西にあり、南は上総国境。椎名上しいなかみ郷に属した。寛永四年(一六二七)から生実藩領で、同五年の小弓領郷帳に中西村のうち田一五四石余・畑三〇石余とある。ほかは旗本西山領と考えられ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二二二石余で同領と生実藩領。旧高旧領取調帳では西山領は幕府領三六石余となっている。文禄四年(一五九五)の検地を伝えると考えられる千葉郡椎名中西村検地帳(享保三年写、中西町内自治会蔵文書)では田一六町六反余・畑屋敷五町四反余。天明六年(一七八六)名寄帳では当村百姓一五に対して、茂呂村一〇・落井おちい村八・富岡とみおか村二・刈田子かつたご村一および草刈くさかり(現市原市)一の入作百姓がみられ、うち村高の四割に当たる七七石余を茂呂村善七が所持していた。


中西村
なかにしむら

[現在地名]加西市中西町

尾崎おざき村の東、下里しもさと川の左岸、鶉野うずらの台地の南端に位置する。寛延二年(一七四九)の播磨国細見図には「中村」と記載され、当地の日吉神社は野上のうえ郷六ヵ村(当村のほか野条・琵琶甲・尾崎・段下・段下新田の五ヵ村)の氏宮であることなどから当村が野上郷の中心地であったことをうかがわせる。「播磨古城記」に「野上郷中西構居岩崎源兵衛、別所ノ幕下ナリ」とあり、岩崎氏は三木城落城ののち帰農して当村の庄屋を勤めた。天正一五年(一五八七)九月二四日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に「中西村」など七ヵ村合せて一千石とあり、豊臣秀吉から木下家定に宛行われている。


中西村
なかにしむら

[現在地名]倉吉市北野きたの

北野村の北東に位置し、古くは同村の枝郷であったが、のちに分村した。天保郷帳に村名がみえ、高四七石余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高五〇石余、竈数一〇。藪役銀八匁、山役米三升九合が課されていた(藩史)。天保七年(一八三六)東方余戸谷よどだに村との境に久米くめ郡筆頭大庄屋牧田重左衛門・同手代甚三郎の両人を糾弾する立札が立てられている(在方諸事控)


中西村
なかにしむら

[現在地名]加古川市西神吉町中西にしかんきちようなかにし

西村の南東、加古川下流西岸、神吉台地の南端に位置する。神吉村からの移住者によって開かれたといわれる(増訂印南郡誌)。正保郷帳では田方一九八石余・畑方一七石余。天保郷帳では高二五九石余。天保九年(一八三八)、木綿仲買人藤吉は長束木綿四〇〇反を売買している(「長束書留帳」穂積家文書)


中西村
なかにしむら

[現在地名]西条市中西

加茂かも川西岸低地にあり、四方平地続きの村で、村域はほぼ菱形。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)新居郡の項に「中西村 小川有」とあり、村高四七八石八斗余は天保頃まで変わらなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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