有機化学者。岡山県津山藩医久原宗甫(そうほ)(洪哉(こうさい))(1825―1896)の長男に生まれる。母は歌子。神戸の箕作麟祥(みつくりりんしょう)の英語学校に通い、15歳のとき貢進生に選ばれ、大学南校に入学。アトキンソンらに化学を学び、1877年(明治10)東京大学理学部化学科を卒業(第1回生)、翌1878年準助教、また東京化学会の創設に貢献し初代会長となる。1879年アメリカに留学し、ジョンズ・ホプキンズ大学のレムセンのもとで有機化学を、エール大学で金石学を研究した。1881年ジョンズ・ホプキンズ大学で学位を取得、同年末に帰国。1884年東京大学理学部教授、1886年より第一高等中学校教諭となり、1894年同校校長、1898年、新設の京都帝国大学理工科大学教授、1912年には同大学第4代総長となった。
1907年(明治40)から1919年にかけてなされたベックマン転位の研究によって世界に知られ、日本における理論的な有機化学研究の基礎を築いた。卒業論文は「日本の染色および捺染(なっせん)法」で、初期には紫根染料の分析(1879)やインジゴの合成(1900)など染料工業の基礎となる純化学的研究を行った。論文「有機化学の講究」(1882)で有機化学の理論的研究の必要性を説き、著書『立体化学要論』(1907)で立体化学を紹介した。彼の研究は小松茂(1883―1947)、野津龍三郎(1892―1957)らに引き継がれ、京都大学における有機化学の反応研究の伝統をつくった。訳書に『レムセン氏小化学書』上下(1888、1889)、著書に『化学者の夢』(1907)などがある。
[徳元琴代 2018年9月19日]
日本の有機化学者.日本の岡山津山藩医の長男として,安政2年11月28日に生まれる.神戸の英語学校に通う.17歳で藩の貢進生として,大学南校に入学し,R.W. Atkinson(アトキンソン)に化学を学び,1877年東京大学理学部第1回卒業生となる.卒業論文は“日本の染色及捺染法”である.1878年準助教となり,東京化学会(日本化学会の前身)を創設し,初代会長となる.1879年アメリカ留学,ジョンズホプキンス大学化学教授I. Remsenのもとで有機化学を学ぶ.1881年Ph.D.の学位を取得して帰国.1884年東京大学教授,1886年東京大学予備門(のちの一高)に移り,1894年一高校長,さらに1898年新設の京都帝国大学理科大学教授,1912年京都帝国大学総長となる.おもな業績として,理論的有機化学研究,藍青の合成反応,フタルイミドの異性体の研究などがある.立体化学の重要性を指摘し,1908~1919年の“ベックマン転位の研究”は世界的に評価が高い.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
明治・大正期の有機化学者 京都帝国大学総長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
(山下愛子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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