デジタル大辞泉
「久明親王」の意味・読み・例文・類語
ひさあき‐しんのう〔‐シンワウ〕【久明親王】
[1276~1328]鎌倉幕府第8代将軍。在職1289~1308。後深草天皇の子。将軍退任後は京に送還された。名は「ひさあきら」とも。
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出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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久明親王
ひさあきしんのう
(1276―1328)
鎌倉幕府第8代将軍。後深草(ごふかくさ)天皇の皇子。母は三条公親(きみちか)の女(むすめ)房子。1289年(正応2)9月、第7代将軍惟康(これやす)親王が北条氏によって罷免され、京都に送還されたあと、次代の将軍に選ばれ、10月にわかに親王宣下(せんげ)を受け、ついで元服、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)宣下を受けた。そして鎌倉に下向し、1308年(延慶1)まで在職したあと、京都に帰され、子の守邦(もりくに)親王が将軍に任ぜられた。京都に帰されたのは、長期の将軍職在職によって御家人(ごけにん)との間に親密な主従関係がつくられることを北条氏が恐れたためとみられている。帰京後、没するまでのことは明らかでない。嘉暦(かりゃく)3年10月14日没。
[新田英治]
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久明親王
ひさあきしんのう
[生]建治2(1276).9.11. 京都
[没]嘉暦3(1328).10.14. 京都
鎌倉幕府8代将軍 (在職 1289~1308) 。後深草天皇の皇子。母は内大臣藤原公親の娘房子。正応2 (1289) 年親王宣下,次いで元服して三品に叙せられ,7代将軍惟康親王が廃されたあと征夷大将軍となり,関東に下向。時に 14歳。永仁3 (95) 年二品,同5年式部卿,一品に進んだが,延慶1 (1308) 年幕府によって廃され,長子の守邦親王が代って将軍となった。のち落飾して素円と号した。詠歌が『新後撰集』その他に所収。
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久明親王 ひさあきらしんのう
1276-1328 鎌倉幕府8代将軍。在職1289-1308。
建治(けんじ)2年9月11日生まれ。後深草天皇の第6皇子。母は藤原房子。正応(しょうおう)2年親王となり,同年7代将軍惟康(これやす)親王にかわって将軍となる。実権は執権北条貞時ににぎられ,徳治(とくじ)3年子の守邦親王に将軍職をゆずり,京都にかえった。嘉暦(かりゃく)3年10月14日死去。53歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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久明親王 (ひさあきしんのう)
生年月日:1276年9月11日
鎌倉時代後期の鎌倉幕府第8代の将軍
1328年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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