コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

鳥羽藩 とばはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鳥羽藩
とばはん

江戸時代,志摩国 (三重県) 鳥羽地方を領有した藩。熊野八庄司の一つといわれる九鬼 (くき) 氏が,戦国時代の嘉隆の代に勢力をもって,豊臣秀吉のもとに3万石を領有したのに始る。その子守隆は関ヶ原の戦いの功により慶長5 (1600) 年に5万 5000石となった。寛永 10 (33) 年以降は内藤氏3万 5000石,土井氏7万石,松平 (大給) 氏6万石,板倉氏5万石,松平 (戸田) 氏6万石を経て,享保 10 (1725) 年以降は稲垣氏が下野 (栃木県) 烏山から移って3万石を領有し廃藩置県にいたった。稲垣氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

百科事典マイペディアの解説

鳥羽藩【とばはん】

志摩国答志(とうし)郡鳥羽(現,三重県鳥羽市)を城地とした藩。水軍の将として活躍した九鬼嘉隆(くきよしたか)は,織田信長から志摩一国および伊勢3郡の内で合わせて3万5000石を安堵され,1594年には水城の鳥羽城を築く。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

藩名・旧国名がわかる事典の解説

とばはん【鳥羽藩】

江戸時代志摩(しま)国答志(とうし)郡鳥羽(現、三重県鳥羽市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は尚志館(しょうしかん)。藩祖は、九鬼(くき)水軍を率いて志摩国を支配した九鬼嘉隆(よしたか)で、織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えて3万5000石の大名となった。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いでは、嘉隆が西軍、子の守隆(もりたか)は東軍に属した。戦後に嘉隆は自刃(じじん)、守隆は2万石加増され、さらに大坂の陣での功により5万5000石となった。しかし、32年(寛永(かんえい)9)に守隆が死没すると、家督争いが起き、それぞれが転封(てんぽう)(国替(くにがえ))されてしまった。以後鳥羽藩には、内藤忠重(ただしげ)以下3代、土井利益(とします)、松平(大給(おぎゅう))乗邑(のりさと)、板倉重治(しげはる)、松平(戸田)光慈(みつちか)と、譜代が次々と3万5000石から7万石で入転封した。1725年(享保(きょうほう)10)に下野(しもつけ)国 烏山(からすやま)藩から譜代の稲垣昭賢(あきかた)が3万5000石で入って藩主家が定着、以後明治維新まで稲垣氏8代が続いた。1871年(明治4)の廃藩置県で鳥羽県となり、その後、度会(わたらい)県を経て76年三重県に編入された。

出典|講談社藩名・旧国名がわかる事典について | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

とばはん【鳥羽藩】

志摩国(三重県)に置かれた藩。伊勢国司北畠氏に属した九鬼嘉隆が土豪を制圧し,1580年(天正8)鳥羽に入って築城,城は大手を海に開き,〈鳥羽の浮城〉といわれた。〈水軍の将〉として織田信長,豊臣秀吉に仕えて3万5000石の大名となり,守隆のとき5万5000石,久隆のとき3万6000石になって移封。以後,内藤忠重(46年),幕領(8ヵ月),土井利益(10年),松平乗邑(19年),板倉重治(8年),松平光慈(1年)とめまぐるしく藩主が交替したが,1725年(享保10)稲垣昭賢が入り,明治維新まで3万石の譜代藩として続いた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鳥羽藩
とばはん

志摩(しま)国鳥羽(三重県鳥羽市)周辺を領有した藩。鳥羽城は1569年(永禄12)、九鬼(くき)水軍を率いて志摩国一円を支配した九鬼嘉隆(よしたか)が築城した山城(やまじろ)で、彼は97年(慶長2)鳥羽3万石の封を嫡子守隆(もりたか)に譲る。関ヶ原の戦いで守隆は東軍に属し、西軍にくみし自刃した父の隠居料5000石とほかに2万石加増され、ついで大坂の陣での功で1000石を加えられ5万6000石を領有した。1632年(寛永9)守隆没後、三男隆季(たかすえ)と五男久隆(ひさたか)の間で家督争いが起こり、幕府の裁決により、翌年、久隆(3万6000石)は摂津三田(さんだ)、隆季(2万石)は丹波綾部(たんばあやべ)へそれぞれ転封となった。かわって内藤忠重(ただしげ)が常陸真壁(ひたちまかべ)から入封した。内藤氏治世下、志摩一宮(いちのみや)伊雑宮(いざわのみや)と、藩主・伊勢(いせ)皇大神宮との間に神領をめぐる「寛文(かんぶん)事件」が起こった。以後、忠重、忠政(ただまさ)、忠勝(ただかつ)と在封したが、1680年(延宝8)忠勝は4代将軍家綱(いえつな)法会の席上、私憤から丹後宮津城主永井尚長(なおなが)を殺害したため切腹を命ぜられ、所領は没収、一時幕領となる。1681年(天和1)土井利益(とします)が下総古河(しもうさこが)から入封、91年(元禄4)肥前唐津(からつ)へ移封となる。これと交代で唐津より松平乗邑(のりさと)が入封、1710年(宝永7)伊勢亀山(かめやま)へ国替となる。入れ替えに亀山より板倉重治(しげはる)が入封、1717年(享保2)ふたたび亀山に転封。かわって松平光慈(みつちか)(7万石)入封、8年後信濃(しなの)松本へ移封。領主交代の激しかった当藩も、1725年下野烏山(しもつけからすやま)より稲垣昭賢(てるかた)(3万5000石)が入封し、昭央(てるなか)、長以(ながもち)、長続(ながつぐ)、長剛(ながかた)、長明(ながあき)、長行(ながゆき)、長敬(ながひろ)と8代、147年間在封。長続のとき、難破船の貢租米隠匿の「波切(なきり)騒動」(1830)が起こっている。1871年(明治4)廃藩となり、鳥羽県、度会(わたらい)県を経て76年三重県に編入された。[原田好雄]
『『磯部郷土史』(1963・同書刊行会) ▽中岡志州著『鳥羽志摩新誌』(1970・中岡書店)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の鳥羽藩の言及

【志摩国】より

…【稲本 紀昭】
【近世】
 戦国時代からこの地を拠点とした九鬼氏は文禄・慶長の役にも出軍した。関ヶ原の戦で東軍に属した九鬼守隆は,1601年(慶長6)所領を安堵されて鳥羽藩主となった(5万5000石)。その後鳥羽藩は内藤忠重,菰野藩預り,土井利益,松平乗邑,板倉重治,松平光慈,幕府直轄,稲垣昭賢と藩主の交替をみ,譜代藩として明治に至った。…

※「鳥羽藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

鳥羽藩の関連キーワード三田[市]綾部[市]志摩(市)鳥羽(市)鳥羽[市]稲垣 長敬三重(県)譜代大名安藤文沢稲垣長続稲垣長以草莽雑誌内藤忠政稲垣長敬九鬼隆季内藤忠勝鷹羽雲淙山本如水稲垣昭央稲垣長剛

今日のキーワード

分水嶺

1 分水界になっている山稜(さんりょう)。分水山脈。2 《1が、雨水が異なる水系に分かれる場所であることから》物事の方向性が決まる分かれ目のたとえ。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android