亀井勝一郎(読み)カメイカツイチロウ

デジタル大辞泉 「亀井勝一郎」の意味・読み・例文・類語

かめい‐かついちろう〔かめゐかつイチラウ〕【亀井勝一郎】

[1907~1966]評論家北海道の生まれ。初め、プロレタリア文学理論家として活躍、のち、転向して日本浪曼派に属し、仏教思想・日本古典に傾倒、文明批評で活躍した。著「大和古寺風物誌」「わが精神の遍歴」「現代人の研究」など。

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精選版 日本国語大辞典 「亀井勝一郎」の意味・読み・例文・類語

かめい‐かついちろう【亀井勝一郎】

  1. 評論家。北海道函館出身。はじめ左翼的政治運動参加。のち転向し「日本浪曼派」創刊に参加。仏教思想に関心を深め、文芸評論、文明批評で活躍した。著「転形期の文学」「大和古寺風物誌」「現代人の研究」「日本人の精神史研究」など。明治四〇~昭和四一年(一九〇七‐六六

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20世紀日本人名事典 「亀井勝一郎」の解説

亀井 勝一郎
カメイ カツイチロウ

昭和期の文芸評論家



生年
明治40(1907)年2月6日

没年
昭和41(1966)年11月14日

出生地
北海道函館市元町

学歴〔年〕
東京大学文学部美術科〔昭和3年〕中退

経歴
東大在学中にマルクス主義芸術研究会に加わり、やがて共産主義青年同盟の一員となるが、昭和3年検挙され、5年に釈放される。7年、プロレタリア作家同盟に加わり「創作活動に於ける当面の諸問題」などを発表し、9年「転形期の文学」を刊行以後転向し、10年「日本浪曼派」を創刊。12年頃から、古典の世界へ関心を深めていった。以後、文学、芸術、宗教、歴史などを合わせて一体とした幅広い視野からの評論活動を展開。13年「人間教育」で池谷信三郎賞を受賞。戦後も幅広く活躍し、26年「現代人の研究」で読売文学賞を、39年に芸術院賞を、40年「日本人の精神史研究」で菊池寛賞を受賞し、40年には芸術院会員に推された。そのほかの作品としては「親鸞」「現代文学にあらわれた知識人像」「島崎藤村論」などがあり、著書は数多く全集24巻が編まれている。没後、亀井勝一郎賞が44年に設けられ、第14回の57年まで続けられた。

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改訂新版 世界大百科事典 「亀井勝一郎」の意味・わかりやすい解説

亀井勝一郎 (かめいかついちろう)
生没年:1907-66(明治40-昭和41)

評論家。北海道生れ。当時,父喜一郎は函館貯蓄銀行の支配人であった。1923年旧制山形高に入学,ドイツ語を通してゲーテ,ハイネの作品に親しみ,また,共産主義思想に関心を寄せる。26年東大に入学,中野重治らを知り新人会会員,共産青年同盟員として活躍,28年検挙投獄される。2年後出獄,日本プロレタリア作家同盟ナルプ)に所属して評論家として再出発するが,同盟解散後,同人雑誌《現実》をへて,35年保田与重郎らと《日本浪曼(ろうまん)派》を創刊,転向以後の自我再生の道を模索する。《転形期の文学》(1934)から《人間教育》(1937)にいたる思索の過程に転向者としての苦悩が如実にうかがえるが,やがてそれが宗教的回心となり,43年《大和古寺風物誌》を刊行。仏教への関心,日本の古典への傾斜は,戦争協力の態度を生んだが,日本的なものの模索は戦後も続けられ,《現代人の研究》をへてライフ・ワーク《日本人の精神史研究》(1959-66)の業績を生んだ。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「亀井勝一郎」の意味・わかりやすい解説

亀井勝一郎
かめいかついちろう
(1907―1966)

評論家。明治40年2月6日、北海道函館(はこだて)市生まれ。東京帝国大学美学科入学後すぐマルクス主義芸術研究会に入り、新人会会員となって労働運動に参加し、1928年(昭和3)大学を自主的に退学。三・一五事件のあと治安維持法違反で検挙され、30年獄中で発病し、転向して出所。32年プロレタリア作家同盟に加わって評論家として活躍。第一評論集『転形期の文学』(1934)刊行後は左翼文学から退き、保田与重郎(やすだよじゅうろう)らと『日本浪曼(ろうまん)派』(1935)を創刊し、日本の古美術、古典、仏教などに関心を深め、『大和(やまと)古寺風物誌』(1943)にまとめた。『文学界』同人としても活躍し、河上徹太郎と「近代の超克」座談会を企画した。

 第二次世界大戦後は『我が精神の遍歴』(1948)をはじめとして、自己を通して日本人の精神史を探る仕事に着手し、社会的には日中国交回復にも尽力した。未完に終わった『日本人の精神史研究』(1959~66)がライフワーク。1965年(昭和40)芸術院会員となる。昭和41年11月14日没。

[神谷忠孝]

『『亀井勝一郎全集』21巻・補巻3(1971~75・講談社)』『武田友寿著『遍歴の求道者亀井勝一郎』(1978・講談社)』

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百科事典マイペディア 「亀井勝一郎」の意味・わかりやすい解説

亀井勝一郎【かめいかついちろう】

評論家。函館生れ。東大美学中退。1926年,中野重治らを知り〈新人会〉入会,1928年に検挙投獄されるが,出獄後プロレタリア文学運動の論客として活躍を始める。しかし1935年保田与重郎らと《日本浪曼派》を創刊,また《文学界》同人となるなど思想的遍歴を続ける。この転向過程については《転形期の文学》に詳しい。同時に仏教への関心を深め,《大和古寺風物誌》《親鸞》がまとめられる。戦後は《現代人の研究》《日本人の精神史研究》等の論著がある。
→関連項目遠山茂樹保田与重郎

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「亀井勝一郎」の意味・わかりやすい解説

亀井勝一郎
かめいかついちろう

[生]1907.2.6. 函館
[没]1966.11.14. 東京
評論家。東京大学美学科を中退した 1928年に共産青年同盟員だったため投獄され,転向しての保釈 (1930) 後もプロレタリア作家同盟に参加。同盟解散後の左翼運動退潮期に自己内面の真実を問う処女評論集『転形期の文学』 (34) で頭角を現すとともに唯物的思潮と決別した。 35年保田 (やすだ) 与重郎と『日本浪曼派』を創刊,同誌廃刊後は小林秀雄らの『文学界』に参加した。相前後して『大和古寺風物誌』 (43) などで貴族的古典美への沈潜とその再興を目指し,同時に仏教への関心も深めた。第2次世界大戦後も『現代人の遍歴』 (48) ,『日本人の精神史研究』 (59~66) などを発表し,宗教的立場からの文明批評で多くの読者を得た。 64年日本芸術院賞受賞。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「亀井勝一郎」の解説

亀井勝一郎 かめい-かついちろう

1907-1966 昭和時代の評論家。
明治40年2月6日生まれ。新人会に参加したが,昭和3年三・一五事件直後に検挙され,獄中転向。10年保田(やすだ)与重郎らと「日本浪曼派」を創刊,ついで「文学界」同人となる。古典や仏教美術に関心をふかめ,「大和古寺風物誌」などをかく。戦後は「日本人の精神史研究」をライフワークとした。41年芸術院会員。昭和41年11月14日死去。59歳。北海道出身。東京帝大中退。
【格言など】無常の観念は,人間の生の驚くべき不安定に対する開眼より生ずる(「信仰について」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「亀井勝一郎」の解説

亀井勝一郎
かめいかついちろう

1907.2.6~66.11.14

昭和期の評論家。北海道出身。東大中退。早くから共産主義思想にめざめ,プロレタリア文学運動で評論活動にたずさわる。1934年(昭和9)のナルプ(日本プロレタリア作家同盟)解散後,雑誌「日本浪曼派」の同人となり,日本の伝統・古典への傾斜を深め,また仏教に強い関心を寄せた。第2次大戦後は日本近代の歴史と日本人のあり方の検討にとりくんだ。晩年の著作に「日本人の精神史研究」がある。「亀井勝一郎全集」全21巻・補巻3。

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367日誕生日大事典 「亀井勝一郎」の解説

亀井 勝一郎 (かめい かついちろう)

生年月日:1907年2月6日
昭和時代の文芸評論家
1966年没

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