四国旅客鉄道の線路名称。高松(香川県)―松山(愛媛県)―宇和島(うわじま)(愛媛県)間(297.6キロメートル)、および愛媛県の向井原(むかいばら)―内子(うちこ)間(23.5キロメートル)、伊予大洲(いよおおず)―新谷(にいや)間(5.9キロメートル)よりなる。四国の北岸(瀬戸内海沿岸)と西岸(宇和海沿岸)を縦貫する幹線鉄道で、讃岐(さぬき)平野、新居浜(にいはま)平野、今治(いまばり)平野、松山平野などの四国北岸の重要都市を結ぶ。1889年(明治22)に讃岐鉄道によって開業した丸亀―多度津(たどつ)―琴平(ことひら)間に始まり、1897年に高松に線路を東進させ、山陽鉄道との合併を経て、1906年(明治39)国有化され、1909年の線路名称の制定によって讃岐線と称された。1913年(大正2)以降、多度津より線路を西にすこしずつ延長し、1927年(昭和2)松山、1935年伊予大洲、1945年宇和島まで開通して現在の路線を全通させた。この間に讃予(さんよ)線(1923)、予讃本線(1933)と線路名称を改め、この線の一部として開業した多度津より琴平を経て阿波池田(あわいけだ)に至る区間を1935年に分離して土讃(どさん)本線(現、土讃線)に編入している。また伊予長浜―伊予大洲間は愛媛鉄道が開業(1918)した線(軌間762ミリメートル)を1935年国有化して1067ミリメートル軌間に改築したものであった。伊予市以南の区間は山地が海岸に迫る険峻(けんしゅん)な地形に線路を建設したため、急曲線と急勾配(こうばい)の連続する劣悪な線形となっている。1986年(昭和61)、向井原―伊予大洲間で中山峠を越える新しいルートの線路が開業し、主要列車は新線を経由して運転されるようになって、海岸と肱(ひじ)川沿いの旧線はローカル列車のみの運転となった(新線中、内子―新谷間の5.3キロメートルは、内子線の路線を改築したために現在も内子線と称する)。1987年、日本国有鉄道の分割民営化に伴い、四国旅客鉄道に所属し、1988年予讃線と改称。また、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋(道路・鉄道併用)が1988年開通し、宇多津(うたづ)駅(新駅)で本四備讃線と線路がつながり、岡山方面から直通列車が予讃線に乗り入れた。四国で最初に電化区間となったのは、1987年3月高松―坂出(さかいで)間、多度津―観音寺(かんおんじ)間、土讃線多度津―琴平間で、同年10月坂出―多度津間も電化された。その後も電化区間は延伸され、1993年までに観音寺―伊予市間の電化が行われた。高松―多度津間のみ複線である。
[青木栄一・青木 亮]
高松駅から坂出,丸亀,多度津,松山をへて宇和島駅に至る297.9kmと向井原~内子間および伊予大洲~新谷間29.4km(新谷~内子間は内子線)JR四国線。1986年に内子経由の路線が開通し,直通列車はこれを利用している。高松~多度津間は讃岐鉄道が建設したもので,1889年5月丸亀~多度津~琴平間が,97年2月丸亀~高松間がそれぞれ開業した。当時この地区は経済的に発展した地域で,また金刀比羅宮は本州からの参詣者も多く,鉄道建設の気運が高まり,讃岐鉄道が設立された。讃岐鉄道は1904年山陽鉄道に,山陽鉄道は06年現山陽本線等とともに国に買収された。国有化以後同線は順次西に延長され,1927年4月松山までが開業し,さらに45年6月宇和島まで全通したが,伊予長浜~伊予大洲間は愛媛鉄道が1918年2月に開業したものを33年10月に買収したものである。なお同線は国鉄時代に讃岐線,讃予線,予讃線,予讃本線と改称されてきた。
執筆者:村山 繁樹
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