二日町(読み)ふつかまち

日本歴史地名大系 「二日町」の解説

二日町
ふつかまち

[現在地名]仙台市二日町・国分町こくぶんちよう三丁目

国分町の北、通町とおりまち(奥州街道)両側町で、町並長さは三町(奥陽名数)。東裏・西裏ともに侍屋敷が並ぶ。町方二四町の一一番目に列するが(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)、国分町などと同じく仙台開府前にすでにあり、中世期国分氏の支配する市町であったとされる。同氏氏神のした白山神社の三月の祭礼には国分町とともに奉仕する義務があり、また後述する三月日市の特権などもその傍証と思われる。その移設は、慶長一五年(一六一〇)の奉行申渡状写(「伊達氏史料」所収)に二日町へ申渡すとあり、この頃と考えられる。町名は移転前に二の日の斎日がもたれていたためという(仙台市史)。町の規模は元禄八年(一六九五)の軒数六六・検断二・肝入一(仙台鹿の子)、明和九年(一七七二)の宅地六八、男五四七・女三七九(封内風土記)、寛政(一七八九―一八〇一)頃の書上(「仙台市史」所収)では家数三五七のうち蔵八五、弘化二年(一八四五)の軒数一〇五(奥陽名数)、嘉永五年(一八五二)の人頭九六人、人数六三三(切支丹宗門改人数)


二日町
ふつかまち

[現在地名]上山市二日町・松山まつやま一―三丁目・石崎いしざき一―二丁目・河崎かわさき一―二丁目・八日町ようかまち美咲町みさきちよう一―二丁目・長清水ながしみず一―三丁目・新湯しんゆ四ッ谷よっや二丁目・弁天べんてん一―二丁目・矢来やらい一―四丁目・石堂いしどう南町みなみまち

矢来橋を渡って入る上山城下の南の入口にあたり、羽州街道に沿い、北は十日とおか町に続く。きた(軽井沢)西にし(沢丁の西方)とともに古い町で、もとは士農工商の雑居するきわめて小範囲の町であったが、寛文九年(一六六九)土岐氏により南東方に移され、十日町しん丁とともに表町通になった。


二日町
ふつかまち

[現在地名]山形市香澄町かすみちよう三丁目・十日町とおかまち四丁目・八日町ようかまち一丁目

十日町の西に延びる通りと八日町の北に延びる通りの両側町で、北と西は三の丸の堀。最上義光時代に町立てされた市日町。最上氏時代には二日町と八日町の裏に馬場があり、最上氏時代城下絵図に「両町裏」と記されているが、いつの頃からか梅林となった。正保城絵図では十日町より二日町の西端まで「西ノ行当より東迄五町二間半」とある。元禄一〇年(一六九七)の屋敷家数等覚(山形故実録)によれば町の長さ一町五七間、屋敷数五二軒(うち無役八軒)、家主四八人、借家店借竈数六人、人数二四〇。


二日町
ふつかまち

[現在地名]三戸町二日町

三戸町のほぼ中央、三戸城西南に位置する。東は在府小路ざいふこうじ、南は八日ようか町に続く。西を熊原くまはら川が北流し、北の黄金きがね橋をもって六日むいか町へ通じる。寛永初年頃の配置図とみられる三戸御古城図に二日町とある。雑書の慶安三年(一六五〇)四月一三日条に「三戸二日町吉右衛門」、同四年三月一五日条に「三戸二日町吉右衛門・金四郎」とあり、当町の商人が紫根取引に携わっている。また承応三年(一六五四)六月四日条には「三戸二日町金四郎、同町三七、御紫買ニ軽米之市ヘ去二日ニ参候処ニ道中ニて隠紫弐駄付参候を追掛候ヘハ人ハ逃見ヘ不申由ニて川原毛四才、鹿毛三才、右弐疋之駒荷馬斗捕候、御紫根ハ土紫ニて弐拾壱〆目有之候」とあって、抜荷紫根が取押えられている。


二日町
ふつかまち

[現在地名]三島市東本町ひがしほんちよう一―二丁目・南二日町みなみふつかまち

三嶋明神(三嶋大社)鳥居前から南へ延びる下田街道沿いに位置し、北はいちはら町。町名は毎月二日に市が立てられたことから付いたといわれる(増訂豆州志稿)。寛文八年(一六六八)の拝借米渡帳(三島市誌)に町名がみえ、町の長さ一二八間。貞享五年(一六八八)の家数三九(家持一九・寺門前三・借家七、数値は史料どおり)、町の長さ一一五間(三島町外万覚帳)。慶応三年(一八六七)の高七五石余、家数六九(本家三五・店借三四)・人数三五五(「宗門人別取調書」三島市誌)


二日町
にのまち

[現在地名]人吉市二日町

人吉城の北、町人町のほぼ中央に位置し、南は五日いつか町、北はおお村の泉田いずみだ、東は七日なぬか町、西は大工だいく町・九日ここのか町と接する。文禄三年(一五九四)近世城郭建設時に計画的に立てられた商人町の一つで、それ以前は大村青井あおい社の門前にあった(熊風土記)。寛政元年(一七八九)の私領御巡見教令(相良家近世文書)によれば「二日町弐町壱間半、道幅四間三尺、下水道加へ、横町弐拾五間、道幅二間半、合弐町弐拾六間半、但屋敷数七拾壱軒」とあり、町別当は弥兵衛で、渡辺伝蔵・尾方市介らが有力商人として知られる。


二日町
ふつかまち

[現在地名]横手市鍛冶かじ町・四日よつか

おお町・四日町の南にある町。南の鍛冶町五日いつか町を経てこの町に入る羽州街道は、ここから大町と四日町の二筋に分れる。寛文九年(一六六九)横手絵図面(横手郷土史資料)に二日町とあり、家数一九戸。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には家数七八軒とある。

天正二年(一五七四)二日町の地(当時町名は不明)に、辞代主神を祭神とする蛭子ひるこ神社が建立され、同一九年類焼により、二日町の西の田中たなか(現田中町)に再建されたと伝える(「蛭子社縁起」横手郷土史資料)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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