二里頭遺跡(読み)ニリトウイセキ(英語表記)Èr lǐ tóu yí zhǐ

デジタル大辞泉 「二里頭遺跡」の意味・読み・例文・類語

にりとう‐いせき〔‐ヰセキ〕【二里頭遺跡】

中国河南偃師えんし県にあるいん代前期の遺跡。中国最古の青銅器宮殿跡が出土し、殷墟いんきょ期に先行する二里頭期標準遺跡とされる。

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精選版 日本国語大辞典 「二里頭遺跡」の意味・読み・例文・類語

にりとう‐いせき‥ヰセキ【二里頭遺跡】

  1. 中国、河南省偃師(えんし)県にある殷代前期の遺跡。中国最古の青銅器や宮殿跡が出土。殷墟期に先行する二里頭期の標準遺跡とされる。

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改訂新版 世界大百科事典 「二里頭遺跡」の意味・わかりやすい解説

二里頭遺跡 (にりとういせき)
Èr lǐ tóu yí zhǐ

中国,河南省偃師県の南西9kmにある河南竜山文化晩期から殷代早期文化の遺跡。1957年に発見され,59-64,72-73,75,80年に発掘調査が行われた。連続する4期に分けられる。第1期文化は河南竜山文化晩期に相当し,鼎,鬹(き),盤,三足盤,豆(とう),壺,盆などが出ている。第2期文化は陶製の爵(しやく),盉(か),觚(こ),簋(き),大口尊などの器形が新たに出現するが,基本的には第1期文化の継承であり,河南竜山文化の終末期から次の文化への過渡期にあたる。第3期文化は,文化内容に大きな変化がみられ,版築の宮殿址が築造されている。宮殿は東西108m,南北100mの基壇上に東西30.4m,南北11.4mの長方形殿堂(8×3間)があり,その周囲に回廊がめぐらされ,南側中央に8間の大門がある。陶器には鬹,盤,三足盤,豆,盆,甕,爵,盉などがあり,殷代の陶器に酷似する。最も注目される遺物は青銅爵で,薄手,無文で,表面が粗く,鉛を含有せず鋳造技術がまだ初歩的段階であることを示している。第4期文化では青銅の鑿,錐,鏃,釣針,玉器,卜骨石器,貝器,平底盆や四耳壺などの陶器が出ており,殷代中期直前の様相をみせている。なお第1~3期の炭素14法による年代はそれぞれ前2005±115~前1605±80年,前1965±150~前1940±100年,前1245±90年である。かつて二里頭遺跡を殷の初代の湯王が都とした亳(はく)に比定する意見もあったが,最近では第1期~4期全体,あるいは第1,2期文化のみを夏代とする見解もあり,確定していない。いずれにしても中国における最初の古代国家の出現を解明するうえできわめて重要な地位を占める遺跡である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「二里頭遺跡」の意味・わかりやすい解説

二里頭遺跡
にりとういせき

中国、河南(かなん/ホーナン)省偃師(えんし)県二里頭村にある遺跡。遺跡の年代は、河南竜山文化から殷(いん)前期の紀元前2000~前1300年ごろにあたる。二里頭遺跡の北は洛河(らくが)に臨み、南は5キロメートルで伊河に達する。北には邙山(ぼうざん)を、南には嵩山(すうざん)を望むことができ、古来、この地方には「夏(か)」や「殷」に関する伝承が多い。遺跡は東西約2.5キロメートル、南北約1.5キロメートルの広さで、文化層の堆積(たいせき)は2~4メートルに達している。遺構としては、宮殿址(し)、小型建築址、墓、灰坑(かいこう)(地下貯蔵穴)があり、出土遺物には、土器、青銅器、玉器の類がある。出土した土器は4期に編年され、二里頭文化の標準遺物となっている。青銅器には、爵(しゃく)、戈(か)、鏃(ぞく)、鈴(れい)、鑿(のみ)、錐(きり)などがあり、中国でもっとも古い青銅遺物として重要な意味をもっている。二里頭文化に関しては、これを夏代の文化とする説、殷前期の文化とする説、二里頭Ⅰ・Ⅱ期を夏、Ⅲ・Ⅳ期を殷前期とする説などがある。また二里頭遺跡を殷第1代の湯(とう)王が都を置いた「西亳(せいはく)」の地に比定する説もあるが確かではない。

[飯島武次]

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百科事典マイペディア 「二里頭遺跡」の意味・わかりやすい解説

二里頭遺跡【にりとういせき】

中国河南省偃師県の新石器時代末期から代の遺跡。4期に分けられ,後半の3・4期には青銅器,宮殿址が伴う。華北における初期国家形成期(前2千年紀前半)の遺跡と考えられ,同時期の城壁を持つ遺跡が他の地域でもいくつか調査されている。これを伝説上の王朝の遺跡であるとする説と殷前期にあたるとする説などがある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二里頭遺跡」の意味・わかりやすい解説

二里頭遺跡
にりとういせき
Er-li-tou

中国河南省偃師県にある古代の遺跡。 1959年以降夏墟探索を指向して,数次にわたり調査された。この遺跡は4期に区分され,第3期では宮殿址や中国最古の青銅器 (爵,鑿,鏃など) が発見された。宮殿址は1辺約 100mの方形基壇上にあり,東西約 30m,南北約 11mの規模をもつ。二里頭1期は河南竜山文化に比定される一方,夏代のものとする意見もあり,まだ評価は定まっていない。

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世界大百科事典(旧版)内の二里頭遺跡の言及

【殷周美術】より

…中国の殷・周王朝の時代から秦による統一までを扱う。はじめ(か)に天下を治める徳があったとき,遠方の国々は物の図を献じ,鼎(てい)を鋳てその図を彫り込んだ(《左氏伝》)という。楚王が周室の鼎(かなえ)の軽重を問うたときの話である。夏の実在についてはなお慎重な調査研究が進められている。河南省偃師(えんし)二里頭下層文化期の土器の様相から,古史の伝えるごとく,夏が青銅器の最初の鋳造者であった可能性はなお十分残されているが,現在発見される最古の青銅器は二里頭上層文化期発見の殷代初期のものである。…

【夏】より

…第17代の履癸(桀王)は暴君で,諸侯が背き,殷の成湯大乙に滅ぼされた。殷の卜辞(甲骨文)のごとき文字史料が未発見で,その実在は未確認であるが,最近,河南省偃師県二里頭遺跡が発見され,その文化の性格をめぐり,夏の存在が強く主張されるにいたった。この遺跡の文化は前後2期に大別され,その前期は新石器の竜山文化晩期に性格が近く,後期は殷の二里岡期に近い。…

【河南[省]】より

…中国の北部,黄河の下流域に位置する省。地域の大部分は黄河の南にあり,河北,山東,安徽,山西,陝西,湖北諸省に隣接し,全国的にみて山地と平原との中間地帯を占める。面積は16万7000km2,中国全体の約60分の1に当たる。人口は9172万(1996)。4地区,13地級市,25県級市,91県からなり,省都は鄭州市である。中国の古代地理書である〈禹貢〉(《書経》の中の一編)には九州の一つとして予州とみえ,ほぼ天下の中央に相当するので中州または中原ともよばれた。…

※「二里頭遺跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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