五名村
ごみようむら
[現在地名]白鳥町五名
湊川上流域、西の女体山(七七三・八メートル)、北の檀特山(六三〇・八メートル)・笠ヶ峰(五五九・七メートル)など四方を高い山に囲まれた山村。五名山ともいい(高松領小物成帳)、寒川郡に属する。阿讃国境に位置し、村内を流れる日開谷川・大影谷川は阿波吉野川に流入し、日根川・太郎川など多くの小流が湊川の水源となっている。村名について「新撰讃岐国風土記」に「往古は日下・鈴竹・大楢・長野・払川の五村なりしを、合併して一村となせし故なり」とある。東は入野山村。国境に境目という地名があり大銀杏がある。慶長年間(一五九六―一六一五)に国境紛争があった(阿波郡誌)。
五名村
ごみようむら
[現在地名]北房町五名
井尾村元組の東にあり、興法地川の流域に広がる。東の山田村と合せて五名山田村とも称された。寛永備中国絵図・正保郷帳にみえる水田村に含まれ、正保郷帳に載る水田村の枝村下水田村の一部を占めると推定される。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)によれば、古高五四五石余・新高七三二石余。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記には五名山田村とみえ、高一千八四九石余。天保郷帳には水田と肩書がある。
五名村
ごみようむら
[現在地名]大山町豊房
原村の西にあり、西は阿弥陀川を隔てて今在家村。村名は、中世庄園の御名田から来ているとの説がある(大山町誌)。正保国絵図には後名村とみえ、元禄郷帳では五名村とある。のち村勢が衰えたため五名は悪を意味する言妙に通じるとして、嘉永二年(一八四九)領内限り蔵岡村と改称した(藩史)。拝領高は三二九石余。天保九年(一八三八)の御巡見様御通行万端袖控(橋井家文書)では家数二九。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四五二石余、竈数二八。藪役銀八匁五分余・竹運上銀一匁二分余を課されていた(藩史)。地内堂垣はかつての温泉湧出地で周囲の石垣や窪地が残り、近くには湯薬師とよばれる薬師堂があった(大山町誌)。
五名村
ごみようむら
[現在地名]田主丸町中尾
綾野村の西に位置する。通称山辺往還(豊後山辺道)沿いに離れて当村内楽徳名があり、耕地も同往還沿いに多い(上三郡絵図)。中世には楽得別符が成立。本高は三一四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高五七〇石・役高五五三石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦七石八斗余・小麦三石九斗余・菜種一石三斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗一升、人数一四六、馬一三(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高五五三石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田三七町五反余・開田一一歩・畑田八反余・畑二町五反余・居屋敷五反余。
五名村
ごみようむら
[現在地名]高山市漆垣内町
大八賀川沿いにあり、西の松之木村から平湯街道が続く。鍋山城跡への大手道は東の漆垣内村から登るが、当村からは通称ふだんど(普段道)をへて行くことができる。名主は漆垣内村の兼帯(天明八年村明細帳)。元禄検地反歩帳の大八賀郷に五明村とみえ高三六石余、田一町五反余・畑一町九反余。「飛騨国中案内」では四割九分一里、家数一四、うち百姓一三・寺一。天明八年(一七八八)の村明細帳では高四一石余・反別四町二反余。家数一七・人数六〇。余業として男は三福寺村同様薪伐り。
五名村
ごみようむら
[現在地名]院内町五名
恵良川の支流日岳川に沿って続く谷間の山間部に位置し、東は原口村、西は日岳村。元禄豊前国絵図によれば、原口村から日岳川沿いに下毛郡に至る往還が村内を東西に通る。小倉藩元和人畜改帳では高一七〇石余、家数二一・人数七三(うち百姓七・名子一四)、牛七・馬二。百姓には小庄屋が一名含まれる。延宝八年(一六八〇)には大門組に所属し、人数一〇六(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳にはみえず、山城村に含まれる。
五名村
ごみようむら
[現在地名]作東町五名
豆田村の北、吉野川沿いに立地。正保郷帳に村名がみえ、田二九五石余・畑一〇六石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郷村高辻帳では改出高一三六石余。開高二〇石余、村位は上。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は山手村と同様。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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