原口村(読み)はらぐちむら

日本歴史地名大系 「原口村」の解説

原口村
はらぐちむら

[現在地名]松前郡松前町字原口・字神山かみやま

近世から大正四年(一九一五)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、江良町えらまち村の北方にあたり、西は海に面する。地名の由来について「地名考并里程記」に「夷語バラコツなり。則、広き渓間と訳す。扨、バラとは広き又ハ打開けたる所をいふ。コツは水なき渓間亦は窪むと申事にて」と記される。一五世紀中葉に道南十二館の一つ原口館があったという(新羅之記録)シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」には「原口 是迄一里小川有 是よりらしたつへ迄山中通る 家十四軒」とみえる。元禄郷帳に「はらくち村」、享保十二年所附に「原口村 此所坂ノ上迄合三十六丁一里 松前不動川より七里」と記される。天保郷帳も原口村とし、持場としておお島をあげる。正徳元年(一七一一)恵美須宮(福山秘府)、享保一六年(一七三一)無常堂が建立された。寛保元年(一七四一)の大津波の生存者が「おこしえ村」から移転したという伝承がある(函館支庁管内町村誌)


原口村
はるぐちむら

[現在地名]院内町原口

恵良えら川の中流域、支流の日岳ひのたけ川が合流する院内盆地の南端に位置し、北は山城やましろ村、南は斎藤さいとう村、西は五名ごみよう村。元禄豊前国絵図によれば、恵良川に沿って南北に走る往還と日岳川沿いに下毛郡に至る往還が交わる交通の要衝。貞和二年(一三四六)九月二六日の一色頼行充行状(高並文書)の宛名人は原口兵衛三郎で、年月日未詳の宇佐郡三十六人衆交名写(吉村韓太文書)に原口与三右衛門がみえ、弘治二年(一五五六)秋の宇佐郡三拾六人衆著到交名案(香下文書)に原口次郎がみえる。


原口村
はりぐちむら

[現在地名]浮羽町三春みはる

耳納みのう山地山麓から筑後川左岸の微高地を占め、東の筑後川上流は豊後国日田郡。本高は六八二石余(元禄国絵図)元禄国絵図作製以後に東原口村・西原口村・大野原おおのばる村の三村に分村したが(田代家文書)、その後も原口村一村でも史料にみえる。村北側の筑後川に沿って、豊後・筑後国境の長淵ながぶちから獺瀬うそのせ鬮取くじとり鎧淵よろいぶち・からふり百貫瀬ひやつかんせ牛瀬うしせ有王ありおうふち地蔵淵じぞうぶちが続き景観に富む一方、水運の難所で(同文書)、渇水期には対岸の筑前国林田はやしだ(現杷木町)に渡る柳瀬やなせ(簗瀬)徒渡場もあった。


原口村
はるぐちむら

[現在地名]合志町豊岡とよおか

合志台地の中央部に立地し、竹迫たかば町の西、油古閑あぶらこが村の北西に隣接する畑作地帯。戦国末期の寺社方家中侍中名附写(厳照寺文書)に「一田四畝 原口村筑間菴、一畑六反八畝 同村内清郷菴、一田壱町壱反三畝 一畑壱町五反 同村内西光寺」と村名がみえ、合志氏の寄進を伝える。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に「下庄原口村」とあり、名請人六八人、屋敷持二七人、畠・屋敷八一町六反四畝余、分米五六四石六斗余。


原口村
はるぐちむら

[現在地名]三光村原口

大貞おおさだ台地の上の原うえのはるにあり、東は森山もりやま村、西は佐知さち村、南は諫山いさやま村、北は加来かく(現中津市)。文保二年(一三一八)七月二五日の田口成任譲状(田口文書)に、「一所、能得名内諫山原口居薗」とあり、村名は「諫山原口」の意であることが知られる。なお能得よしとく名内の小字有安ありやす桜町さくらまちも今に残るから、この村に中世能得名があったことが知られる。またこの頃時元ときもと名がこの村にあり、正和二年(一三一三)九月六日の鎮西下知状(野中文書)によれば、神領興行で神官成清が市尾光俊より時元名などを返付されることとなった。


原口村
はるぐちむら

[現在地名]菊水町原口

西境を菊池川、東部をうらたに川が流れ、東は米渡尾めどのお村、南は江田えた村、北は藤田ふじた村・前原まえばる村と接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「江田原口村」、元禄国絵図にも「江田村之内原口村」とあり、江田村からの分村である。慶長の検地帳によると田九町二反六畝余・畠屋敷三四町四反三畝余・屋敷筆数一八、分米三四七石七斗余、家数四三・人数五二、牛馬八、下ケ名に堂のまへ・屋敷ノ内などがある。近世は内田手永に属する。「国誌」に「大江田村上ノ原村等ノ小村アリ」とある。


原口村
はらぐちむら

[現在地名]上山市原口

生居なまい川と川に挟まれた牧野まぎの原にあり、北西は牧野村。地名は牧野原の入口の意といわれる。正保郷帳では田方一四一石余・畑方一一六石余。元禄五年(一六九二)の村明細帳(長井政太郎氏旧蔵文書)でも高二五七石余で、反別田八町三反余・畑一三町三反余、新田八石余、家数一六、人数男六六・女五四、馬一八。一二町八反余の土地が「焼ばい野地」で、用水は中川なかがわ郷蔵王川から取水するのぼり堰で、悪水が混入し収穫はあまりよくない。畑約八反に紅花を栽培し上山町で売却するほか、煙草も作り、養蚕もわずかながら行っている。


原口村
はらぐちむら

[現在地名]横田町稲原いなはら

稲田いなた村の南に位置する。天文一三年(一五四四)六月一一日の天満宮の遷宮棟札に原口村代官本田家吉とみえる。家吉は前年横田庄を支配下に入れた尼子晴久が同庄内に派遣した五人の代官の一人。天正六年(一五七八)八月二一日毛利輝元支配下の同庄代官三沢為虎の臣成田秀綱は、播磨上月こうづき(現兵庫県上月町)での合戦で討死した息子彦六右兵衛尉追善のため「原口村之内(割カ)分」一貫文の地を晋叟しんそう寺に寄進している(「成田秀綱寄進状」晋叟寺文書)


原口村
はらぐちむら

[現在地名]加茂町原口

北と東は宇野うの村、南西は上横野かみよこの(現津山市)、西は岩屋いわや(現鏡野町)に接する。宇野村からの分村というが、その年は不詳(東作誌)。正保郷帳に高一六五石余、うち田方一三五石余・畑方二九石余とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高九二石余・開高一三石余。寛政元年(一七八九)の津山領郡村高帳では本田畑高二五七石余・新田畑高一三石余・新開田畑高一石余。「東作誌」では三九軒・一二七人、天保九年(一八三八)の津山藩領郡村記録では二五戸・一〇三人。地字に信田・尾路・丸尾・カナメキ・小田・大谷・小西・岡田・岡・今宮・東田がある。


原口村
はるぐちむら

[現在地名]北部町明徳めいとく 原口

坪井つぼい川と井芹いせり川に挟まれた台地上にあり、東は糸山いとやま村、西は山本やまもと郡正院手永の向坂むこうざか(現鹿本郡植木町)に接する。「国誌」によれば五町手永に属し、「古閑山ト云小村アリ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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