デジタル大辞泉
「五姓田芳柳」の意味・読み・例文・類語
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ごせだ‐ほうりゅう【五姓田芳柳】
- [ 一 ] ( 初世 ) 幕末・明治初期の日本画家。本姓浅田。幼名岩吉。のち柳翁と号する。江戸に生まれる。井草国芳に浮世絵、樋口探月に狩野派を学び、横浜でワーグマンについて洋画法を研究。風俗、肖像を描いて横浜画と呼ばれる和洋折衷の画風を創出した。文政一〇~明治二五年(一八二七‐九二)
- [ 二 ] ( 二世 ) 洋画家。初世の養子。旧姓倉持。本名子之吉。下総国(しもうさのくに)に生まれる。五姓田義松(初世芳柳の二男)やサン=ジョバンニらに師事。トモエ会を結成し、多くの作品を発表した。元治元~昭和一八年(一八六四‐一九四三)
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五姓田芳柳
ごせだほうりゅう
画家。初世と2世がある。
[小倉忠夫 2018年9月19日]
(1827―1892)文政(ぶんせい)10年2月1日、紀州藩士浅田富五郎の子として江戸に生まれる。幼少のころ父を失い、転々と五つの姓(本多、猪飼、津田、森田)を名のったので、後年五姓田とする。少年のころ歌川国芳(うたがわくによし)に浮世絵を学び、画家を志して1843年(天保14)から1848年(嘉永1)まで全国を巡遊する。さらに樋口探月(ひぐちたんげつ)(1821―1896)に狩野(かのう)派を学ぶが、先に長崎で見たオランダ絵画の迫真的写実を求め、絹地に暈染(うんぜん)法を用いる西洋画風の明暗法を苦心して創案した。幕末は横浜に移り、この和洋折衷手法による肖像画や風俗画を描いて有名になったが、これらは横浜絵として輸出もされた。1873年(明治6)東京・浅草へ移り住み、幻視画の見世物ジオラマを制作するほか、宮内省の委嘱で明治天皇の肖像を描いている。1877年、西南の役に際して大阪臨時陸軍病院に出張を命じられ、多くの負傷者を写生し、のち『西南役大阪臨時病院負傷兵施術光景』を制作した。浅草に光彩舎を設けて注文制作をするが、1885年には芳柳の号を養子の倉持子之吉(くらもちねのきち)に譲り、柳翁と称した。明治25年2月1日没。
[小倉忠夫 2018年9月19日]
(1864―1943)洋画家。下総(しもうさ)国(茨城県)に生まれ、幼名は倉持子之吉。1878年(明治11)上京して五姓田義松に師事し、のちにその父芳柳の養嗣子(しし)となる。ワーグマン、さらに1881年から工部美術学校のサン・ジョバンニAcchile San Giovanni(生没年不詳)とカペレッティGiovanni Vincenzo Cappelletti(1843―1887)に師事する。明治美術会の創立会員となり、同会解散後は川村清雄(かわむらきよお)らと巴会(ともえかい)を創立した。1900年(明治33)パリの万国博覧会に出品して褒状を受け、また1910年の日英博覧会に際してイギリスへ渡り、「日本古代より現代に至る風俗変遷図」のジオラマを制作して名誉賞状を受けた。後年、明治時代を回顧した歴史風俗画を多く描いた。
[小倉忠夫 2018年9月19日]
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五姓田芳柳【ごせだほうりゅう】
洋画家。初世〔1827-1892〕は本名浅田岩吉。江戸に生まれ,浮世絵を歌川国芳に,次いで日本画を樋口探月に学んだが,長崎で蘭画に感動して洋画を独修,日本絵具を使って緻密(ちみつ)で平板な洋画を描いた。次男の五姓田義松〔1855-1915〕は早くからワーグマン,フォンタネージの指導を受けて本格的な洋画を描き,将来を嘱望されたが若死した。2世〔1864-1943〕は本名倉持子之吉。義松に油絵を学んだ後,初世の養子となりその名を継いだ。初世,2世ともに歴史画,肖像画,風俗画を本領とした。
→関連項目満谷国四郎|山本芳翠
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五姓田 芳柳(2代目)
ゴセダ ホウリュウ
明治〜昭和期の洋画家
- 生年
- 元治1年8月6日(1864年)
- 没年
- 昭和18(1943)年1月9日
- 出生地
- 下総国猿島郡沓掛村(茨城県)
- 本名
- 五姓田 子之吉
- 旧姓(旧名)
- 倉持
- 経歴
- はじめ初代五姓田芳柳の門に入り、初代没後は実子の五姓田義松に師事。明治13年初代芳柳の養嗣子となり、18年2代目芳柳を継ぐ。ワーグマンなど外国画家にも洋画法を学び、明治初期の内国勧業博覧会や明治美術会展に出品した。35年トモエ会(巴会)を結成。文展以後は作品を公表せず、依嘱による歴史画や風俗画を描いた。代表作に「聖徳記念絵画館考証図」「明治天皇御事蹟画」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
五姓田芳柳
没年:明治25.2.1(1892)
生年:文政10.2.1(1827.2.26)
幕末明治期の洋画家。江戸生まれ。本姓浅田,紀州(和歌山)藩士の子。5度改姓し五姓田と称した。幼名岩吉。歌川国芳,樋口探月に師事したのち,嘉永5(1852)年独自の折衷的洋風表現をあみだし,元治1(1864)年から横浜で肖像画を多く描いて一家をなした。このころの門下に山本芳翠などがある。明治6(1873)年浅草に移住し,ジオラマを制作,同年明治天皇像を描く。陸軍病馬院御用掛も務め,西南の役に際し大阪臨時陸軍病院に取材した「西南役大阪陸軍病院施術図」(東京芸大蔵)などの作品がある。次男義松,長女勇子(渡辺幽香)も洋画家。養子倉持子之吉が2世芳柳を名乗る。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
五姓田芳柳(初代) ごせだ-ほうりゅう
1827-1892 幕末-明治時代の洋画家。
文政10年2月1日生まれ。はじめ狩野派や浮世絵をまなぶ。長崎でみたオランダ画に感動し,和洋折衷(せっちゅう)の手法を工夫する。横浜絵とよばれる肖像画や風俗画をえがいた。次男の義松,長女の渡辺幽香(ゆうこう)も洋画家。門下に山本芳翠(ほうすい)らがいる。明治25年2月1日死去。66歳。江戸出身。本名は浅田岩吉。作品に「明治天皇御影」「西南役大阪陸軍病院施術図」など。
五姓田芳柳(2代) ごせだ-ほうりゅう
1864-1943 明治-昭和時代前期の洋画家。
元治(げんじ)元年8月7日生まれ。五姓田義松にまなび,初代芳柳(義松の父)の養子となる。明治美術会の創立会員。明治33年パリ万博出品の「猿曳図」で褒状をうけた。晩年は歴史・風俗画をえがく。昭和18年1月9日死去。80歳。下総(しもうさ)猿島郡沓掛村(茨城県)出身。旧姓は倉持。本名は子之吉(ねのきち)。作品に「枢密院憲法会議」など。
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五姓田芳柳
ごせだほうりゅう
[生]文政10(1827).2.1. 江戸
[没]1892.2.1. 東京
洋画家。初め浮世絵や狩野派を学んだが,のち洋画に関心をもち,独学で技法を修得して,日本画と洋画を折衷した独自の画風を生んだ。また私塾を開いて山本芳翠ら多くの門人を育成。明治前期の洋画家五姓田義松は,彼の次男。主要作品『傷病兵御慰問』 (1877頃,靖国神社) ,『西南役大阪陸軍病院施術図』 (81,東京芸術大学) 。
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五姓田芳柳
ごせだほうりゅう
1827〜92
明治前期の洋画家
本名浅田岩吉。五度改姓したことから五姓田と称す。江戸の生まれ。浮世絵・狩野派などを学び,のちワーグマンに洋画を師事。ぼかしによる陰影法の肖像画を得意とし,1864年横浜で一派をなし横浜絵と呼ばれた。代表作に『明治天皇像』など。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
五姓田 芳柳(初代) (ごせだ ほうりゅう)
生年月日:1827年2月1日
江戸時代;明治時代の洋画家
1892年没
五姓田 芳柳(2代目) (ごせだ ほうりゅう)
生年月日:1864年8月7日
明治時代-昭和時代の洋画家
1943年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の五姓田芳柳の言及
【五姓田義松】より
…江戸高輪に生まれる。幕末の洋風画家五姓田芳柳(1827‐92)の次男。旧姓は森田,号は照海。…
【水彩】より
…とくに重要な画家をあげれば,ドラクロア,ドーミエ,セザンヌ,ゴッホ,シニャック,モローなどがおり,20世紀にかけてはルオー,デュフィ,スゴンザック,クレー,ノルデ,またアメリカではホーマー,プレンダーガストMaurice Prendergast(1859‐1924),マリンJohn Marin(1870‐1953)などがあげられ,いずれも従来の伝統にとらわれない自由な様式,技法を見せている。
[近代日本の水彩]
日本では《イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ》の特派員として幕末に来日したイギリス人ワーグマンに学んだ高橋由一,五姓田(ごせだ)芳柳(1827‐92),その次男の義松などが洋風水彩画の端緒を作り,浅井忠は油彩のほか水彩にもすぐれていた。また1907年には[大下藤次郎],丸山晩霞(ばんか)(1867‐1942)らの手で日本水彩画研究所が設立され,その後の水彩の普及,発展に大きく貢献した。…
※「五姓田芳柳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」