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五姓田芳柳 ごせだほうりゅう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

五姓田芳柳
ごせだほうりゅう

[生]文政10(1827).2.1. 江戸
[没]1892.2.1. 東京
洋画家。初め浮世絵狩野派を学んだが,のち洋画に関心をもち,独学で技法を修得して,日本画と洋画を折衷した独自の画風を生んだ。また私塾を開いて山本芳翠ら多くの門人を育成。明治前期の洋画家五姓田義松は,彼の次男。

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デジタル大辞泉の解説

ごせだ‐ほうりゅう〔‐ハウリウ〕【五姓田芳柳】

[1827~1892]画家。江戸の人。本姓、浅田。浮世絵狩野派を学ぶ一方、長崎で洋画に出会い、独学でそれらを折衷した画風を創出。横浜で肖像画・風俗画を多く描き、横浜画とよばれた。

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百科事典マイペディアの解説

五姓田芳柳【ごせだほうりゅう】

洋画家。初世〔1827-1892〕は本名浅田岩吉。江戸に生まれ,浮世絵歌川国芳に,次いで日本画を樋口探月に学んだが,長崎で蘭画に感動して洋画を独修,日本絵具を使って緻密(ちみつ)で平板な洋画を描いた。
→関連項目満谷国四郎山本芳翠

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朝日日本歴史人物事典の解説

五姓田芳柳

没年:明治25.2.1(1892)
生年:文政10.2.1(1827.2.26)
幕末明治期の洋画家。江戸生まれ。本姓浅田,紀州(和歌山)藩士の子。5度改姓し五姓田と称した。幼名岩吉。歌川国芳,樋口探月に師事したのち,嘉永5(1852)年独自の折衷的洋風表現をあみだし,元治1(1864)年から横浜で肖像画を多く描いて一家をなした。このころの門下に山本芳翠などがある。明治6(1873)年浅草に移住し,ジオラマを制作,同年明治天皇像を描く。陸軍病馬院御用掛も務め,西南の役に際し大阪臨時陸軍病院に取材した「西南役大阪陸軍病院施術図」(東京芸大蔵)などの作品がある。次男義松,長女勇子(渡辺幽香)も洋画家。養子倉持子之吉が2世芳柳を名乗る。

(三輪英夫)

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大辞林 第三版の解説

ごせだほうりゅう【五姓田芳柳】

1827~1892) 画家。江戸生まれ。浮世絵・日本画を学ぶが、のち横浜に移って洋画を志し、日本画の顔料で洋風の肖像画・風俗画を描いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

五姓田芳柳
ごせだほうりゅう

画家。初世と2世がある。[小倉忠夫]

初世

(1827―92)文政(ぶんせい)10年2月1日、紀州藩士浅田富五郎の子として江戸に生まれる。幼少のころ父を失い、転々と五つの姓(本多、猪飼、津田、森田)を名のったので、後年五姓田とする。少年のころ歌川国芳(くによし)に浮世絵を学び、画家を志して1843年(天保14)から48年(嘉永1)まで全国を巡遊する。さらに樋口(ひぐち)探月に狩野(かのう)派を学ぶが、先に長崎で見たオランダ絵画の迫真的写実を求め、絹地に暈染(うんぜん)法を用いる西洋画風の明暗法を苦心して創案した。幕末は横浜に移り、この和洋折衷手法による肖像画や風俗画を描いて有名になったが、これらは横浜絵として輸出もされた。73年(明治6)東京・浅草へ移り住み、幻視画の見世物ジオラマを制作するほか、宮内省の委嘱で明治天皇の肖像を描いている。77年、西南の役に際して大阪臨時陸軍病院に出張を命じられ、多くの負傷者を写生し、のち『西南役大阪陸軍病院施術図』を制作した。浅草に光彩舎を設けて注文制作をするが、85年には芳柳の号を養子の倉持子之吉(くらもちねのきち)に譲り、柳翁と称した。明治25年2月1日没。[小倉忠夫]

2世

(1864―1943)洋画家。下総(しもうさ)国(茨城県)に生まれ、幼名は倉持子之吉。1878年(明治11)上京して五姓田義松に師事し、のちにその父芳柳の養嗣子(しし)となる。ワーグマン、さらに81年から工部美術学校のサン・ジョバンニとカペレッティに師事する。明治美術会の創立会員となり、同会解散後は川村清雄(きよお)らと巴会(ともえかい)を創立した。1900年(明治33)パリの万国博覧会に出品して褒状を受け、また10年の日英博覧会に際してイギリスへ渡り、「日本古代より現代に至る風俗変遷図」のジオラマを制作して名誉賞状を受けた。後年、明治時代を回顧した歴史風俗画を多く描いた。[小倉忠夫]

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世界大百科事典内の五姓田芳柳の言及

【五姓田義松】より

…江戸高輪に生まれる。幕末の洋風画家五姓田芳柳(1827‐92)の次男。旧姓は森田,号は照海。…

【水彩】より

…とくに重要な画家をあげれば,ドラクロア,ドーミエ,セザンヌ,ゴッホ,シニャック,モローなどがおり,20世紀にかけてはルオー,デュフィ,スゴンザック,クレー,ノルデ,またアメリカではホーマー,プレンダーガストMaurice Prendergast(1859‐1924),マリンJohn Marin(1870‐1953)などがあげられ,いずれも従来の伝統にとらわれない自由な様式,技法を見せている。
[近代日本の水彩]
 日本では《イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ》の特派員として幕末に来日したイギリス人ワーグマンに学んだ高橋由一,五姓田(ごせだ)芳柳(1827‐92),その次男の義松などが洋風水彩画の端緒を作り,浅井忠は油彩のほか水彩にもすぐれていた。また1907年には大下藤次郎,丸山晩霞(ばんか)(1867‐1942)らの手で日本水彩画研究所が設立され,その後の水彩の普及,発展に大きく貢献した。…

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