精選版 日本国語大辞典 「五姓田芳柳」の意味・読み・例文・類語
ごせだ‐ほうりゅう【五姓田芳柳】
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画家。初世と2世がある。
[小倉忠夫 2018年9月19日]
(1827―1892)文政(ぶんせい)10年2月1日、紀州藩士浅田富五郎の子として江戸に生まれる。幼少のころ父を失い、転々と五つの姓(本多、猪飼、津田、森田)を名のったので、後年五姓田とする。少年のころ歌川国芳(うたがわくによし)に浮世絵を学び、画家を志して1843年(天保14)から1848年(嘉永1)まで全国を巡遊する。さらに樋口探月(ひぐちたんげつ)(1821―1896)に狩野(かのう)派を学ぶが、先に長崎で見たオランダ絵画の迫真的写実を求め、絹地に暈染(うんぜん)法を用いる西洋画風の明暗法を苦心して創案した。幕末は横浜に移り、この和洋折衷手法による肖像画や風俗画を描いて有名になったが、これらは横浜絵として輸出もされた。1873年(明治6)東京・浅草へ移り住み、幻視画の見世物ジオラマを制作するほか、宮内省の委嘱で明治天皇の肖像を描いている。1877年、西南の役に際して大阪臨時陸軍病院に出張を命じられ、多くの負傷者を写生し、のち『西南役大阪臨時病院負傷兵施術光景』を制作した。浅草に光彩舎を設けて注文制作をするが、1885年には芳柳の号を養子の倉持子之吉(くらもちねのきち)に譲り、柳翁と称した。明治25年2月1日没。
[小倉忠夫 2018年9月19日]
(1864―1943)洋画家。下総(しもうさ)国(茨城県)に生まれ、幼名は倉持子之吉。1878年(明治11)上京して五姓田義松に師事し、のちにその父芳柳の養嗣子(しし)となる。ワーグマン、さらに1881年から工部美術学校のサン・ジョバンニAcchile San Giovanni(生没年不詳)とカペレッティGiovanni Vincenzo Cappelletti(1843―1887)に師事する。明治美術会の創立会員となり、同会解散後は川村清雄(かわむらきよお)らと巴会(ともえかい)を創立した。1900年(明治33)パリの万国博覧会に出品して褒状を受け、また1910年の日英博覧会に際してイギリスへ渡り、「日本古代より現代に至る風俗変遷図」のジオラマを制作して名誉賞状を受けた。後年、明治時代を回顧した歴史風俗画を多く描いた。
[小倉忠夫 2018年9月19日]
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(三輪英夫)
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…江戸高輪に生まれる。幕末の洋風画家五姓田芳柳(1827‐92)の次男。旧姓は森田,号は照海。…
…とくに重要な画家をあげれば,ドラクロア,ドーミエ,セザンヌ,ゴッホ,シニャック,モローなどがおり,20世紀にかけてはルオー,デュフィ,スゴンザック,クレー,ノルデ,またアメリカではホーマー,プレンダーガストMaurice Prendergast(1859‐1924),マリンJohn Marin(1870‐1953)などがあげられ,いずれも従来の伝統にとらわれない自由な様式,技法を見せている。
[近代日本の水彩]
日本では《イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ》の特派員として幕末に来日したイギリス人ワーグマンに学んだ高橋由一,五姓田(ごせだ)芳柳(1827‐92),その次男の義松などが洋風水彩画の端緒を作り,浅井忠は油彩のほか水彩にもすぐれていた。また1907年には大下藤次郎,丸山晩霞(ばんか)(1867‐1942)らの手で日本水彩画研究所が設立され,その後の水彩の普及,発展に大きく貢献した。…
※「五姓田芳柳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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