熊本県東部、八代市(やつしろし)の泉町地区(旧泉村)の東半を占める葉木(はぎ)、仁田尾(にたお)、樅木(もみき)、椎原(しいばる)、久連子(くれこ)の旧村5か村の総称。球磨(くま)川の支流、川辺(かわべ)川の最上流域で、周囲を九州山地の脊梁(せきりょう)をなす1300~1700メートルの山々で縁どられていることから、南接の五木村(いつきむら)とともに秘境とされてきた。河谷は深く、各所に滝がみられるが、山容は単純で、急峻(きゅうしゅん)さに欠け、緩傾斜面が多い。日本の山地の深奥村の例にたがわず、落人(おちゅうど)・木地師(きじし)居住が村立て伝承の柱になっている。阿蘇(あそ)氏、細川氏、天草(あまくさ)代官(天領)と支配者がかわるなかで、この地域的単位が不変のまま継承されてきたことは、地形的隔絶もさることながら、山腹の緩傾斜地や、河岸段丘上に点在する集落を統括してきた地頭(じとう)(代官治下では大庄屋(おおじょうや)待遇)の支配力の強さと、地頭相互の連帯の強さとにもよろう。世襲の地頭は、江戸時代には旧村規模の範域を領有、支配していたといわれる。この地域の食糧農産物確保のための木場作(こばさく)(焼畑耕作)には、地頭を地主に、百姓を小作人とする焼畑の小作経営が存在していた。江戸時代から地頭の百姓への山林分割譲渡はあったが、明治維新後、林業的焼畑もみられるようになって、譲渡も増え、また小作慣行の小作料も、収穫物だけでなく、植林手間でも支払いができるようになった。これらの変質は、旧村5か村において一様に展開したのではなく、昭和10年代前半では、葉木、樅木では小作慣行はほぼ消滅し、各農家は私有地に木場作(ソバ、アワ、アズキ、サトイモなどを栽培)を行うのが普通であった。しかし、久連子、椎原、仁田尾では小作慣行は昭和30年代後半まで行われていたという。
終戦前後の食糧難の時期を除けば、その多くは、植林のための地拵(じごしら)えを前提にした雑木林地の火入れによって造成された焼畑耕作地であった。植林の普及は、用材搬出のための林道開削要求を高め、これに応じて建設された「五ヶ荘林道」は、1943年(昭和18)から14か年の歳月をかけて全線(約25キロメートル)開通し、秘境からの脱出の契機となったと同時に、今日では、その一部は国道445号に昇格し、観光道的性格を強めている。観光対象には、五木五家荘県立自然公園の中心をなす山岳、滝(栴檀轟(せんだんとどろ))、原生林などのほかに、深い谷に架かった吊橋(つりばし)、木場作跡をしのばせるモザイク状の森林景観、さらに秘境であったがために伝えられている古代踊(国の選択無形民俗文化財、久連子)、神楽(かぐら)(葉木・樅木)、月拝み・二十三夜待ち(仁田尾)、人形回し(仁田尾)、旧地頭家の大屋根の茅葺(かやぶ)き寄棟造(よせむねづくり)民家(仁田尾)などがあげられる。
[山口守人]
五箇荘とも書く。九州山地山間部にある地域名で,熊本県八代市に属する。球磨川の支流川辺川(五木川)の源流部付近に散在する葉木(はぎ),仁田尾,樅木(もみき),椎原(しいばる),久連子(くれこ)の5地区からなる。五家荘の成立については10世紀に藤原氏に追われた菅家の子孫が左座(ぞうざ)姓を,また12世紀に源氏に追われた平家の子孫が緒方姓を名のって難を逃れ,この地に分け入ったとの伝承が残り,木地師の集団移住とする説もある。かつては交通不便な隔絶された山村であったが,第2次世界大戦後はこの地にも林道(現,国道445号線)が通じ,原生林は宮崎県境の九州山地以外は減少している。古くからの独特な生活様式もしだいに変わって自給的な焼畑はごく少なくなり,杉,ヒノキなどの造林が盛んに行われ,茶,シイタケ,山菜,ヤマメを産する。一帯は五木五家荘県立自然公園,九州中央山地国定公園に含まれ,五木川の深い渓谷とつり橋,栴檀轟(せんだんとどろ)滝,久連子の古代踊(県無形文化財)など恵まれた自然と古くから伝わる民俗芸能を訪ねる人が増えている。
執筆者:岩本 政教
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