日本の城がわかる事典 「井伊谷城」の解説 いいのやじょう【井伊谷城】 静岡県浜松市北区(旧引佐(いなさ)郡引佐町)にあった中世の山城(やまじろ)。南北朝時代から戦国時代にかけての遠江西部の有力国人で、のちに徳川氏の重臣となった井伊氏発祥の地にある、同氏の居城である。旧引佐町役場の裏手の井伊谷川と神宮寺川の合流点北側の尾根に築かれていた城郭で、本丸、二の丸、三の丸などで構成されていた。平安時代の9世紀中ごろ、井伊氏初代の藤原共保(当時の遠江の国司の藤原共資の子とされる)がこの地(井伊谷)に入って井伊氏を名乗り、1010年(寛弘7)に同城を築いたといわれるが、築城年代・経緯は明らかではない。井伊谷城が歴史の舞台に登場したのは南北朝時代である。南朝方に与した井伊谷城主の井伊道政は遠江の南朝方の領袖として宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じて、井伊谷城の詰の城であった三岳城(浜松市)に籠もり、子息の高顕とともに北朝方(室町幕府方)と熾烈な戦いを展開した。井伊谷城も南朝方の拠点となったが北朝方の高師泰・仁木義長らに攻められて落城した。戦国時代に入り、井伊氏は駿河の今川氏との確執の末に臣従し、1560年(永禄3)の桶狭間の戦いでは、今川方の部将として従軍した城主の井伊直盛が討死し、家督を継いだ直親は1562年(永禄5)、今川氏真に謀叛の疑いをかけられて朝比奈泰能によって討たれ、遺児の虎松(のちの井伊直政)は徳川家康を頼って落ち延びた。その後、井伊直虎(女性、直親の従妹、のちの祐圓尼)が家督を継ぎ城主となった。1568年(永禄11)、小野道好に井伊谷城を横領されたが、徳川家康により城を回復している。こうした経緯で、井伊氏は徳川家康に属するようになった。1572年(元亀3)には、信濃から三河に侵入した武田信玄の部将山県昌景に敗れ、城を明け渡して浜松城に逃れている(翌年4月に武田勢が撤退したため城を回復した)。直虎は直親の嫡子虎松(井伊直政)を養子として育て、直政は長じて家康に出仕した。直政は徳川四天王の一人として活躍し、井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として知られた。直虎の死後、直政が家督を相続したが、直政は小牧・長久手の戦いで戦功をあげ、井伊谷に6万石を領有する大名となった。直政が上野国高崎藩の初代藩主、近江国佐和山藩の藩主を経て初代彦根藩主として彦根城に入城するのは関ヶ原の戦いの後のことだが、1602年(慶長7)、関ヶ原の戦いで負った傷がもとで死去した。城跡は現在、井伊谷城跡城山公園として整備されているが、土塁状の遺構がわずかに残るのみである。城山南麓の龍譚寺は井伊家ゆかりの寺院で、境内には井伊家歴代墓所や井伊直政公出世之地の石碑などがある。JR東海道本線浜松駅からバス、井伊谷下車後、徒歩約20分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報