中国で古代の聖人の治世に行われた理想的土地制度と目された田制。前4世紀の孟子は滕(とう)の文公に説いて,〈夏后氏は五十にして貢し,殷人は七十にして助し,周人は百畝にして徹す。その実は皆什の一なり〉という3代の土地税役制の認識に立ち,《詩経》小雅大田の〈我が公田に雨ふり,遂に我が私に及べ〉の句を念頭において,〈方里にして井し,井は九百畝,その中は公田。八家皆百畝を私し,同じく公田を養う。公事畢(おわ)りて然る後敢て私事を治む〉制を勧めている(《孟子》滕文公上)。これによれば井田は方1里(約400m四方,17ha)の耕地を形に区画し,中央1区を公田,他8区を私田として8家に給し,8家の労働で公田を耕営させるものとみられる。戦国後期に秦の商鞅(しようおう)が阡陌を開く制を始め,井田はくずされ耕地私有が広がったと古来解されてきた。他方《周礼(しゆらい)》では,土地の肥瘠に応じ,不易の上地(連作地)は家ごとに100畝,一易の中地(1年休耕地)は200畝,再易の下地(2年休耕地)は300畝を給すとし,後漢の班固の《漢書》食貨志ではこれらの所伝を総合して井田制の全体像を描き,農の外の士・工・商の家も皆5口で農夫1人に当たる田を受けるとし,さらに20歳で受田し60歳で田を帰すと明記するとともに,公田も10畝ずつ8家に給し,残り20畝は廬舎となすとのべている。
これらの説明からうかがわれるように,井田は儒家の理想であって,現実の土地制度の混乱,農民の貧富の差の拡大等に対処する方策として構想された思想的産物であり,周代にそれが実施されていた証跡は現在のところほとんど見いだされていない。20世紀になって胡適らの学者はその非現実性を主張したが,一方上代の農村共同体や支配者の土地経営にその原拠を想定する見解も種々提出されている。そして新の王莽(おうもう)の行った王田の制や,北魏に始まる均田法はその範を井田に求め,唐代でも均田を井田の理念につらなるものとして互称されたほど,その後代の土地制度への影響は大きかった。朝鮮にも箕子の伝えた井田の制が後世まで伝承された。
執筆者:池田 温
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中国、周代に行われたと伝えられる土地制度。正方形の耕地を「井」字形に区画したところから名づけられ、『孟子(もうし)』に初めてみえる。一里(約400メートル)四方の土地を「井」字形に九区分すると、一区画が100畝(ぽ)(約1.8ヘクタール)となる。周囲の八区画は八戸の家がそれぞれ「私田」として耕し、中心の一区画を「公田」として八戸共同で耕して、為政者にその収穫を納入する。孟子は、この100畝の耕地のほかに五畝の宅地を民に保証し、「恒産(こうさん)」をもたせることによって、民に「恒心(こうしん)」あらしめようとした。
井田法は、儒家的な政治理想を説いたものにすぎないとする説と、実際に施行された土地制度とみる説とがある。後者の場合には、秦(しん)の商鞅(しょうおう)の変法(前350)によって廃止されたと考えられている。
[小倉芳彦]
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周代に行われたという田制。1里(約400m)四方の田を井字形に9等分し,中央の1区を公田,他の8区を私田として8家に分け,公田は8家が共同耕作し,その収穫を租として国に納める制度。『孟子』(もうし)に記述される。古代社会にこれと近い共同耕作があったことは考えられるが,この法の存在を跡づけることは困難で,多分に儒家による粉飾があるといわれている。
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