中国、戦国時代の秦(しん)の政治家、法家の思想家。衛の公室の子孫であったため衛鞅または公孫鞅ともよばれた。初め魏(ぎ)の宰相公叔座(こうしゅくざ)(?―前361)に仕えたが、その死後は秦の孝公(在位前361〜前338)に仕えた。孝公の信頼を得、その承認のもとで、貴族層の強い反対を押し切って、紀元前359年、前350年の2回にわたる大政治改革を断行した。いわゆる「商鞅の変法」であり、その目的は、旧来の貴族層の特権を廃し、君主が官僚を使って民を直接支配する中央集権政治の体制をつくり、それによって富国強兵を実現しようとするにあった。この政策はいちおう成功し、隣国の魏と戦って勝ち、西方の後進国の秦を一躍強国にし、その功績によって商の地に封ぜられ、商君と号し、商の姓を名のった。やがて、その強制的改革は貴族層の強い恨みを買い、孝公の死後車裂(くるまざき)の刑に処せられた。しかし商鞅のつくった新しい法の精神は以後も受け継がれ、秦の全国統一達成の基礎になったといわれる。『商子』(商君書)を著したと伝えられるが、多くの篇(へん)は後の法家の手になるものと考えられている。
[太田幸男 2015年12月14日]
『司馬遷著、小川環樹他訳『史記列伝』(岩波文庫)』
中国,戦国秦の政治家。衛の公子の出身で姓は公孫または衛,名は鞅。後に秦における功績で商(陝西省商県)に封ぜられたので商鞅という。魏で法家の学を学び,はじめ魏に仕えていたが認められず,たまたま秦の孝公が人材を求めていると聞いて,魏を去り秦に行った。彼は強国の術を説いて信任を得ると,前359年(孝公3)と前350年の2度にわたって〈商鞅変法〉と総称される大改革を断行した。富国強兵の実をあげ,君主を頂点とする強力な中央集権体制の確立を目ざしたこの改革により,秦は一躍して西方の強国となった。孝公が死ぬと反対派に謀反の罪をきせられ,車裂きの極刑に処せられたが,彼の改革はその後も秦の政治の基本路線として継承され,秦の天下統一を実現にみちびくとともに,ひいては秦・漢帝国の基礎を築いたものとして重要な歴史的意義をもっている。後学が彼に仮託して編纂した書物に《商君書》(《商子》)がある。
執筆者:永田 英正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
?~前338
衛鞅(えいおう),公孫鞅(こうそんおう)ともいう。戦国時代,秦の政治家。衛の公子。前361年以後秦の孝公に仕え,血縁集団の解体,土地制度の改革,隣保制度による治安維持,郡県制の施行,軍功による授爵などの大改革を断行し,秦を富強にした。強制的な改革が反動を呼び,孝公の死後,車裂きの刑に処せられた。彼の改革には秦漢統一国家の形成の萌芽がみられる。『商君書』はその学説を伝える。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…当時中央を占め,その勢力範囲に周王室をも包摂していた韓(河南省宜陽,のち河南省禹県,河南省新鄭)は,四方を強国に囲まれ,強大になることはなかった。 このような状況に対し,西方にあった秦は前4世紀前半には魏に奪われた陝西東部の回復に着手し,孝公(在位,前361‐前338)は衛から亡命してきた商鞅を登用し,法治主義の政治体制を整え,農民を再編成し,軍功による爵位の制度を設け,地方の行政組織として県を置き,官吏を派遣して治めるなどの改革を行い,さらに都を雍(陝西省鳳翔)から東の咸陽(陝西省咸陽)にうつして東進の態勢を整え,魏の領内に侵攻した。さらに韓の西部を攻めるとともに,漢江を下って楚に攻撃を繰り返した。…
…中国,戦国秦の政治家商鞅(しようおう)の学説をまとめた書。《商子》ともいう。…
…その後,秦の発展は小休止するが,戦国時代に入り,前361年に孝公が即位すると秦は再び国力を充実し,強大国へと発展した。その発展に寄与したのが,衛出身者の商鞅(しようおう)である。孝公によって任用された彼は,世に〈商鞅変法〉と称される内政の大改革を断行した。…
…陳氏のもとの斉の国では容量の単位が五進法に変えられ,また現存する子禾子銅釜,左関銅に見られるように標準量器も作られた。戦国の秦の国では商鞅(しようおう)の変法が実施され,畝積制を含む土地改革がなされるとともに,〈斗桶,権衡,丈尺〉の度量衡を標準化する法が実施され,前344年には標準量器の商鞅銅方升が作られ,秦の始皇帝による中国全土の度量衡統一の基礎となった。前221年始皇帝はみずからの詔を刻ませた標準となるべき分銅(銅権,鉄石権)と枡(銅方升)を作り,同時に尺度や車軌も統一させた。…
…戦国初期の魏の,李悝(りかい)(克)の《法経》制作による富国策と楚の呉起(?‐前381)の法治による君権強化策は,同時に起こった。両者をうけて,商鞅(しようおう)の変法は,隣保・家族制や軍功爵による集権支配と官僚制,土地改革などの富国強兵策とを,法制をしいて秦で強行した。以後,韓の申不害(?‐前337)は〈刑名(実功と言辞)〉審合で臣下を統御し〈術〉によって黄老風に権力意志を〈無為〉に隠匿(カムフラージュ)する独裁術を唱え,斉の稷下(しよくか)学士(稷門)の慎到は客観的な力関係と権力の掌握行使の方策が〈勢〉威にあると説いた。…
…しかし幕府法上の縁坐は,博奕(ばくち)・隠鉄砲・隠売女・失火その他の犯罪に,名主・組頭・五人組・総百姓・家主・地主・両隣・町内などが,過料・手鎖・押込・叱などの刑に処せられるもので,刑罰が軽微であるうえ,連坐が科さるべき犯罪の種類も,連帯責任・相互監視によって犯罪を未然に防ぎ,犯罪摘発を容易にするのに適したものに限定されており,近世前期に比してかなり緩和されている。【林 由紀子】
[中国]
前4世紀中ごろ,戦国時代の秦で,商鞅(しようおう)が什伍の組織をつくり,1人が罪を犯したとき,その他の人々を連坐する制度をつくったのが,連坐の語の初出の例である。しかし連坐制の起源はさらに古くさかのぼるとみられる。…
※「商鞅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新