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商鞅 しょうおう Shang-yang

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

商鞅
しょうおう
Shang-yang

[生]?
[没]孝公24(前338)
中国,戦国時代の政治家,法家。衛鞅ともいう。衛の出身での孝公に仕え,商君に封じられる。2回にわたる改革で郡県制の実施,隣保制と連座制の強化,大家族制の分解,土地制度の改革,戦功による爵位の授与など一連の法治主義政策を断行し,秦の発展の基礎をつくった。

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デジタル大辞泉の解説

しょう‐おう〔シヤウアウ〕【商鞅】

[?~前338]中国、戦国時代の政治家。の公子。の孝公に仕え、法家的改革を断行して秦を富強にし、商に封ぜられたが、強圧的な改革と厳しい信賞必罰の政策が旧貴族の反発を買い、孝公の死後、車裂きの刑に処せられた。商君。

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百科事典マイペディアの解説

商鞅【しょうおう】

中国,戦国時代の法家。公孫鞅・商君とも。諸子百家の一人。衛の公族の出。秦の孝公に仕えた。法治主義に基づき富国強兵策を断行,法制・税制・軍制・田制などを大改革中央集権国家体制による秦の強盛をきたしたが,孝公の死後,宗族・貴族の反感を買い刑死した。

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世界大百科事典 第2版の解説

しょうおう【商鞅 Shāng Yāng】

?‐前338
中国,戦国秦の政治家。衛の公子の出身で姓は公孫または衛,名は鞅。後に秦における功績で商(陝西省商県)に封ぜられたので商鞅という。魏で法家の学を学び,はじめ魏に仕えていたが認められず,たまたま秦の孝公が人材を求めていると聞いて,魏を去り秦に行った。彼は強国の術を説いて信任を得ると,前359年(孝公3)と前350年の2度にわたって〈商鞅変法〉と総称される大改革を断行した。富国強兵の実をあげ,君主を頂点とする強力な中央集権体制の確立を目ざしたこの改革により,秦は一躍して西方の強国となった。

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大辞林 第三版の解説

しょうおう【商鞅】

?~前338) 中国、戦国時代秦の政治家。衛の庶公子。孝公に仕え、富国強兵の大改革(変法)を断行、のちの法治主義の統一国家秦の基礎を作った。孝公の死後、反対派によって車裂きにされた。衛鞅。公孫鞅。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

商鞅
しょうおう
(?―前338)

中国、戦国時代の秦(しん)の政治家、法家の思想家。衛の公室の子孫であったため衛鞅または公孫鞅ともよばれた。初め魏(ぎ)の宰相公叔座(こうしゅくざ)(?―前361)に仕えたが、その死後は秦の孝公(在位前361~前338)に仕えた。孝公の信頼を得、その承認のもとで、貴族層の強い反対を押し切って、紀元前359年、前350年の2回にわたる大政治改革を断行した。いわゆる「商鞅の変法」であり、その目的は、旧来の貴族層の特権を廃し、君主が官僚を使って民を直接支配する中央集権政治の体制をつくり、それによって富国強兵を実現しようとするにあった。この政策はいちおう成功し、隣国の魏と戦って勝ち、西方の後進国の秦を一躍強国にし、その功績によって商の地に封ぜられ、商君と号し、商の姓を名のった。やがて、その強制的改革は貴族層の強い恨みを買い、孝公の死後車裂(くるまざき)の刑に処せられた。しかし商鞅のつくった新しい法の精神は以後も受け継がれ、秦の全国統一達成の基礎になったといわれる。『商子』(商君書)を著したと伝えられるが、多くの篇(へん)は後の法家の手になるものと考えられている。[太田幸男]
『司馬遷著、小川環樹他訳『史記列伝』(岩波文庫)』

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世界大百科事典内の商鞅の言及

【春秋戦国時代】より

…当時中央を占め,その勢力範囲に周王室をも包摂していた韓(河南省宜陽,のち河南省禹県,河南省新鄭)は,四方を強国に囲まれ,強大になることはなかった。 このような状況に対し,西方にあった秦は前4世紀前半には魏に奪われた陝西東部の回復に着手し,孝公(在位,前361‐前338)は衛から亡命してきた商鞅を登用し,法治主義の政治体制を整え,農民を再編成し,軍功による爵位の制度を設け,地方の行政組織として県を置き,官吏を派遣して治めるなどの改革を行い,さらに都を雍(陝西省鳳翔)から東の咸陽(陝西省咸陽)にうつして東進の態勢を整え,魏の領内に侵攻した。さらに韓の西部を攻めるとともに,漢江を下って楚に攻撃を繰り返した。…

【商君書】より

…中国,戦国秦の政治家商鞅(しようおう)の学説をまとめた書。《商子》ともいう。…

【秦】より

…その後,秦の発展は小休止するが,戦国時代に入り,前361年に孝公が即位すると秦は再び国力を充実し,強大国へと発展した。その発展に寄与したのが,衛出身者の商鞅(しようおう)である。孝公によって任用された彼は,世に〈商鞅変法〉と称される内政の大改革を断行した。…

【度量衡】より

…陳氏のもとの斉の国では容量の単位が五進法に変えられ,また現存する子禾子銅釜,左関銅に見られるように標準量器も作られた。戦国の秦の国では商鞅(しようおう)の変法が実施され,畝積制を含む土地改革がなされるとともに,〈斗桶,権衡,丈尺〉の度量衡を標準化する法が実施され,前344年には標準量器の商鞅銅方升が作られ,秦の始皇帝による中国全土の度量衡統一の基礎となった。前221年始皇帝はみずからの詔を刻ませた標準となるべき分銅(銅権,鉄石権)と枡(銅方升)を作り,同時に尺度や車軌も統一させた。…

【法家】より

…戦国初期の魏の,李悝(りかい)(克)の《法経》制作による富国策と楚の呉起(?‐前381)の法治による君権強化策は,同時に起こった。両者をうけて,商鞅(しようおう)の変法は,隣保・家族制や軍功爵による集権支配と官僚制,土地改革などの富国強兵策とを,法制をしいて秦で強行した。以後,韓の申不害(?‐前337)は〈刑名(実功と言辞)〉審合で臣下を統御し〈術〉によって黄老風に権力意志を〈無為〉に隠匿(カムフラージュ)する独裁術を唱え,斉の稷下(しよくか)学士(稷門)の慎到は客観的な力関係と権力の掌握行使の方策が〈勢〉威にあると説いた。…

【連座(連坐)】より

…しかし幕府法上の縁坐は,博奕(ばくち)・隠鉄砲・隠売女・失火その他の犯罪に,名主・組頭・五人組・総百姓・家主・地主・両隣・町内などが,過料・手鎖・押込・叱などの刑に処せられるもので,刑罰が軽微であるうえ,連坐が科さるべき犯罪の種類も,連帯責任・相互監視によって犯罪を未然に防ぎ,犯罪摘発を容易にするのに適したものに限定されており,近世前期に比してかなり緩和されている。【林 由紀子】
[中国]
 前4世紀中ごろ,戦国時代の秦で,商鞅(しようおう)が什伍の組織をつくり,1人が罪を犯したとき,その他の人々を連坐する制度をつくったのが,連坐の語の初出の例である。しかし連坐制の起源はさらに古くさかのぼるとみられる。…

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