江戸後期の洋風画家。本名永田善吉を略し田善と号した。亜欧堂はアジアとヨーロッパにちなむ堂号で、ほかに星山堂とも称した。陸奥(むつ)国(福島県)須賀川(すかがわ)に生まれる。染物業のかたわら僧月僊(げっせん)に絵を学ぶが、領主の白河城主松平定信(さだのぶ)に画才をみいだされ、自分より若い谷文晁(ぶんちょう)の弟子となった。ついで、定信から銅版術の研究を命ぜられ、初め司馬江漢の弟子になったようであるが破門、のち定信周辺の蘭学者(らんがくしゃ)の協力を得て銅版画(エッチング)や油絵の技術を習得。彼は西洋銅版画を写して画技を磨き、『ゼルマニア廓中之図』(1809)のような西洋銅版画の模刻作品もつくったが、文化(ぶんか)年間(1804~1818)を中心として大小多数の江戸名所風景図を世に出し、銅版画家として重きをなした。彼の銅版画は江漢よりも技術が進んでおり、人物を中心とした風俗画的傾向が強い。田善の肉筆洋風画でも『両国図』(奈良家蔵)、『今戸瓦(かわら)焼図』(神戸市立博物館)は風俗画の傾向が強いが、『浅間山図』(東京国立博物館)は風景画で、洋風画の写実と屏風(びょうぶ)形式の装飾性を合体させた野心作である。宇田川玄真著『医範提綱(いはんていこう)』(1808)の挿絵や『新訂万国全図』(1810)など実用銅版画もつくった。
[成瀬不二雄]
『菅野陽著『日本銅版画の研究 近世』(1974・美術出版社)』▽『成瀬不二雄著『江戸の洋風画』(1977・小学館)』▽『磯崎康彦著『亜欧堂田善の研究』(1980・雄松堂書店)』
(佐藤康宏)
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江戸後期の洋風画家。本名永田善吉を略し田善と号した。亜欧堂はアジアとヨーロッパにちなむ堂号である。陸奥国(現,福島県)須賀川の生れ。染物業のかたわら僧月僊に絵を学び,白河城主松平定信に見いだされ谷文晁に師事した。のち定信から銅版画(エッチング)の研究を命ぜられ,はじめ司馬江漢についたが,やがて定信周辺の蘭学者の協力を得て,江漢とは別途に銅版画や油絵の技法を習得した。彼は輸入西洋銅版画を写して画技をみがき,その模刻を行い,宇田川玄真著《医範提綱》(1808)の銅版挿絵,銅版《新訂万国全図》(1810)のような実用面の仕事もした。しかし,彼の本領は大小多数の銅版江戸名所風景図にあり,その洋風画法と銅版術は江漢より進歩している。また,彼は《両国図》などの肉筆の洋風日本風景図も描き,江漢とともに幕末の北斎や広重の風景版画に刺激を与えた。
執筆者:成瀬 不二雄
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1748~1822.5.7
江戸後期の洋風画家。本名は永田善吉。陸奥国須賀川生れ。松平定信に才能をみいだされ,その命をうけて洋風画・銅版画を学ぶ。「新訂万国全図」(1810)は実用銅版画の高い到達点を示すが,その天分は風俗画の要素を色濃くもつ江戸名所図の連作に最もよくいかされた。文化年間を中心に制作された田善の作品は,高い技術と絵画性を示し,司馬江漢(しばこうかん)以降の銅版画の展開のうえで重要な位置を占める。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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[日本における銅版画]
日本には16世紀末にイエズス会によって彫刻銅版画(エングレービング)が導入されたが,17世紀初めにキリシタン弾圧によって断絶した。18世紀後半に司馬江漢がエッチングを再興し,亜欧堂田善,安田雷洲ら注目すべき作家を生んだ。開国後イタリアから招聘したキヨソーネが再びエングレービングを教え,腐食法とともに実用的な挿図,地図などに用いられた。…
※「亜欧堂田善」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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