改訂新版 世界大百科事典 「伊予親王」の意味・わかりやすい解説
伊予親王 (いよしんのう)
生没年:?-807(大同2)
平安初期の官人。桓武天皇の皇子,母は藤原吉子。792年(延暦11)に加冠し,三品式部卿,中務卿,大宰帥を歴任。政治的力量にもめぐまれ,管絃もよくし,桓武天皇の信頼もあつく,天皇は巡幸,遊猟の際よくその山荘に行幸し,歓楽をともにした。しかし桓武天皇没後の807年10月に政治的陰謀事件にまきこまれて失脚し,母とともに自殺した。はじめ反逆の首謀者とみなされた藤原宗成が尋問の過程で伊予親王こそ首謀者であると主張したため,平城天皇は左中将安倍兄雄らをして親王らを捕らえ,母子を大和国川原寺に幽閉した。無実を主張する親王と母は飲食を断ち,親王の地位を廃された翌日,11月12日にみずから毒薬を飲んで自殺するという悲劇的な結末をとげた。これは当時の政界の確執にもとづく陰謀事件で,人々はこれを哀れんだという。さきの安倍兄雄も伊予親王の無実を天皇に諫言したがうけいれられなかったという。のち無実が明らかとなり,839年(承和6)には一品が贈られた。このように悲劇的な最期をとげた人物の怨霊が民衆の心をとらえはじめたのは,ちょうど平安初期のことであった。天災地変から有力者の死までが,そのたたりであると理解された。伊予親王母子はかくして怨霊の典型とされ,863年(貞観5)の御霊会でまつられることになり,中世の説話,戦記物にも登場し,上御霊神社にまつられて京都市民の信仰の中に生きつづけた。
執筆者:佐藤 宗諄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報