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伊予親王 いよしんのう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

伊予親王
いよしんのう

[生]?
[没]大同2(807).11.12. 京都
桓武天皇の第3皇子。母は藤原吉子 (南家是公の娘) 。三品に叙され,式部卿中務卿歴任藤原宗成 (式家) が謀反を企て,はかりごとが現れて捕えられるや,親王首謀者と讒言した。そこで母とともに捕えられて幽閉され,母子とも毒を飲んで死んだ。藤原諸家の勢力争いの犠牲となったもの。弘仁 10 (819) 年先に削られた親王の号を復した。陵墓は京都市伏見区桃山町遠山の巨幡墓 (こはたのはか) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

伊予親王 いよしんのう

?-807 奈良-平安時代前期,桓武(かんむ)天皇の皇子。
式部卿(きょう),中務(なかつかさ)卿兼大宰帥(だざいのそち)などを歴任。大同(だいどう)2年謀反の疑いで母の藤原吉子とともに大和(奈良県)川原寺に幽閉,親王位を剥奪(はくだつ)され,11月12日母と服毒自殺した。この事件は藤原仲成がしくんだものといわれ,弘仁(こうにん)10年無実があきらかとなり復位した。

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朝日日本歴史人物事典の解説

伊予親王

没年:大同2.11.12(807.12.14)
生年:生年不詳
平安前期の皇族。桓武天皇藤原是公の娘吉子の子。平城天皇の異母弟。式部卿,中務卿を歴任。親王を寵愛した桓武天皇は宇治や北野の親王別荘で遊宴を楽しんでいる。平城天皇即位の翌大同2(807)年10月,謀反の疑いをかけられ,母と共に川原寺(奈良県明日香村)に幽閉されて飲食を断たれ,6日後,母子共に服毒自殺した。事件の真相は明らかでないが,藤原仲成,薬子らが仕組んだ事件との見方が強い。のち親王号を復し,承和6(839)年一品が追贈された。貞観5(863)年に神泉苑御霊会が催された際には早良親王らと共に親王母子の霊が慰撫された。いま上御霊,下御霊神社(ともに京都市)に八所御霊のひとつとして祭られている。黄金塚古墳(京都市伏見区)が親王の墓(巨幡墓)に比定されている。

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

いよしんのう【伊予親王】

?‐807(大同2)
平安初期の官人。桓武天皇の皇子,母は藤原吉子。792年(延暦11)に加冠し,三品式部卿,中務卿,大宰帥を歴任。政治的力量にもめぐまれ,管絃もよくし,桓武天皇の信頼もあつく,天皇は巡幸,遊猟の際よくその山荘に行幸し,歓楽をともにした。しかし桓武天皇没後の807年10月に政治的陰謀事件にまきこまれて失脚し,母とともに自殺した。はじめ反逆の首謀者とみなされた藤原宗成が尋問の過程で伊予親王こそ首謀者であると主張したため,平城天皇は左中将安倍兄雄らをして親王らを捕らえ,母子を大和国川原寺に幽閉した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

伊予親王
いよしんのう
(?―807)

平安初期の官人。桓武(かんむ)天皇の皇子で、母は右大臣藤原是公(これきみ)の娘吉子。792年(延暦11)に元服し、四品(しほん)となり、ついで三品式部卿(しきぶきょう)、中務卿(なかつかさきょう)などの要職を歴任した。政治家としての素養をもち、管絃(かんげん)もよくし、父の寵愛(ちょうあい)を受け、804年(延暦23)には近江(おうみ)国(滋賀県)蒲生(がもう)郡の荒田53町を与えられた。しかし807年(大同2)10月、謀反を企てて検束された藤原宗成(むねなり)が、首謀者は親王であると自白したために捕らえられ、母とともに大和(やまと)国城上(しきのかみ)郡川原寺(かわらでら)(奈良県高市(たかいち)郡明日香村)に幽閉された。11月11日に親王号を剥奪(はくだつ)され、翌日母子は毒を飲んで抗議の自殺をした。この伊予親王事件の背景には皇位継承をめぐる貴族との抗争があったと考えられる。819年(弘仁10)に親王の無実が明らかとなり本位に復され、863年(貞観5)の神泉苑(しんせんえん)での御霊会(ごりょうえ)では母子ともに祀(まつ)られた。京都市上京区の上御霊(かみごりょう)神社に奉祀(ほうし)されている。[佐藤宗諄]

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世界大百科事典内の伊予親王の言及

【祟り】より

…御霊とは政治的に非業の死をとげた人々の怨霊をいい,それが疫病や地震・火災などをひきおこす原因とされたのである。このような御霊信仰の先例はすでに奈良時代にもみられ,僧玄昉(げんぼう)の死が反乱者である藤原広嗣の霊の祟りによるとされたが,平安時代に入ってからはとくに権力闘争に敗れた崇道(すどう)天皇(早良親王),伊予親王,橘逸勢(たちばなのはやなり)などの怨霊が御霊として恐れられ,863年(貞観5)にはその怒りと怨みを鎮めるための御霊会(ごりようえ)が神泉苑で行われた。また承和年間(834‐848)以降は物の怪の現象が文献に頻出するようになるが,これはやがて《源氏物語》などのような文学作品,《栄華物語》のような史書のなかでも大きくとりあげられるようになった。…

※「伊予親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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