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伊勢貞親 いせさだちか

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

伊勢貞親
いせさだちか

[生]応永24(1417)
[没]文明5(1473).1.21. 若狭
室町幕府政所執事。貞国の子。母は蜷川親俊の娘。幼名は七郎,のち兵庫助。備中守,伊勢守と称した。寛正1 (1460) 年,政所執事,応仁1 (67) 年従四位上。将軍足利義政の信任厚く,相国寺蔭涼軒主季瓊 (→季瓊真蘂〈きけいしんずい〉 ) とともに幕府の実権を握り,専権をふるったが,文正1 (66) 年斯波氏の家督相続問題に関与して諸将の反感を買い,さらに足利義視を義政に讒言して殺害しようとしたことが露見して,近江に逃走した。

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デジタル大辞泉の解説

いせ‐さだちか【伊勢貞親】

[1417~1473]室町中期の武将・有職(ゆうそく)家。室町幕府の政所執事。伊勢守。将軍義政の信任を得て権勢を獲得。斯波氏の家督相続問題に干渉したり、足利義視排斥に失敗したりするなど、幕政に大きく関わった。伊勢流故実の基礎を築いたことでも知られる。

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百科事典マイペディアの解説

伊勢貞親【いせさだちか】

室町中期の武将。1454年父貞国から家督を継承,1460年政所執事となる。将軍足利義政の信任を得,幕政に多大な影響力を及ぼした。将軍後継問題で後継者に立てられた義視の殺害を企て失敗,細川勝元らに追われたが,義政の信頼は変わらず,1467年召還された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

伊勢貞親 いせ-さだちか

1417-1473 室町時代の武将,有職(ゆうそく)家。
応永24年生まれ。伊勢貞国の子。長禄(ちょうろく)4年政所(まんどころ)執事となる。かつて養育係をつとめた将軍足利義政の信任を得,季瓊真蕊(きけい-しんずい)とくんで権勢をふるう。足利義視(よしみ)の暗殺に失敗して出奔(しゅっぽん)するが,義政に召還され応仁(おうにん)2年執事に復する。伊勢流故実の基礎をきずいた。文明5年1月21日死去。57歳。号は聴松軒。
【格言など】いかに気にあわざる者来たりとも対面すべし(「伊勢貞親教訓」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

伊勢貞親

没年:文明5.2.21(1473.3.19)
生年:応永24(1417)
室町時代の幕府吏僚。貞国の子。兵庫助,伊勢守。享徳3(1454)年,父貞国の跡を継ぎ室町幕府に出仕したが,家職の政所執事は二階堂忠行に奪われ,寛正1(1460)年,ようやく同職に就任した。以後僧録司の相国寺蔭涼軒主季瓊真蘂と組んで次第に幕政に介入し,殿中惣奉行,御厩別当などを兼ね,将軍足利義政の信任を得た。彼らの政治干与を可能にしたのは,将軍義政の無能もあるが,有力守護家の内訌による混乱と,その結果としての宿老政治の破綻であった。文正1(1466)年7月には斯波家の紛議に介入して義敏擁立に動き,同年9月には日野富子足利義尚出産を奇貨として足利義視暗殺を謀り,細川勝元ら宿老の指弾にあって近江へ逃亡した。これが文正の政変で,半年後にはじまる応仁の大乱の導火線となる。大乱勃発後ほどなく幕政に復帰したが,義視はこれを嫌悪して自ら西軍(山名持豊方)に投じ,戦乱の混迷に拍車をかけた。文明3(1471)年官を辞し,出家。武家故実の権威で,子の貞宗に与えた『伊勢貞親教訓』は賄賂を是認する室町社会の慣習や教育思想を伝える重要史料。大乱の張本人ひとりで,幕府政治の転換点に立つ人物としても興味深い。<参考文献>二木謙一『中世武家儀礼の研究』

(今谷明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

いせさだちか【伊勢貞親】

1417‐73(応永24‐文明5)
室町中期の武将,政所執事。初名は七郎,のち兵庫助,備中守,伊勢守。政所執事貞国の子で,母は蜷川親俊の女。1454年(享徳3)父貞国より伊勢氏の家督を継ぎ,60年(寛正1)政所執事となる。将軍足利義政が彼のもとで養育されたことからその絶大なる信任を得て,寛正ごろには将軍に近侍しその取次ぎにあたる申次衆の過半を貞親の一族で占めるなど,蔭涼軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)とともに幕政において多大な影響力を行使した。

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大辞林 第三版の解説

いせさだちか【伊勢貞親】

1417~1473) 室町中期の幕府政所執事。足利義政の信任を得て、斯波家の家督相続問題に干渉、また足利義視を除こうとするなど、幕政に参与。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

伊勢貞親
いせさだちか
(1417―1473)

室町幕府の近臣。貞国(さだくに)の子。初名七郎、兵庫助(ひょうごのすけ)、備中守(びっちゅうのかみ)、伊勢守。1460年(寛正1)政所(まんどころ)執事になった。足利義政(あしかがよしまさ)の養い親であったところから幕府に隠然たる影響力をもち、ことに応仁(おうにん)の乱前後には義政の佞臣(ねいしん)とよばれることもあった。66年(文正1)斯波(しば)家の継嗣(けいし)争いに介入し、義廉(よしかど)を退けて義敏(よしとし)をたてることを義政に進言し、また子供のなかった義政が弟義視(よしみ)を後嗣に据える動きを示すと、讒言(ざんげん)して義視の殺害を計り、失敗して近江(おうみ)(滋賀県)に逃げた。翌67年(応仁1)召還され、政務に復活したが、このため義政、義視の対立はいっそう深刻になった。文明(ぶんめい)5年若狭(わかさ)(福井県)で没した。57歳。法号を聴松院悦堂常慶という。[桑山浩然]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の伊勢貞親の言及

【足利義政】より

…しかし実権を握り庶政をみたのは管領や山名氏など有力大名と政所執事伊勢氏であった。57年ころよりは伊勢氏の支持によって将軍勢力が強まり,伊勢貞親主導による守護大名抑制政策が行われたが,その過程で畠山・斯波家内の相続争いが利用され,応仁・文明の乱の一因となった。義政は政治力がなく,頼みの伊勢貞親が66年(文正1)大名らの反発により失脚すると,政治収拾は困難となり応仁の乱に突入した。…

【伊勢氏】より

…なお執事のほか,多くの所領を保持し,また大和吉野郡,尾張智多郡等の分郡守護を歴任,応仁の乱後は幾度か山城守護に任ぜられている。職務の性質上,将軍の側近としてしばしば幕政に介入し,とくに60年(寛正1)執事に就任した伊勢貞親は将軍足利義政の寵を受け,相国寺蔭涼軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)らと斯波家,将軍家の家督紛争に関与,諸大名に排斥されて66年(文正1)没落している。最後の執事貞孝も三好長慶と結んだため1563年(永禄6)暗殺された。…

【応仁・文明の乱】より

…ところが54年(享徳3)にいたり,神保・土肥・椎名などの反義就派被官が蜂起し,持国の甥弥三郎を擁立しようとしたことから,畠山氏の家臣たちは2派に分かれて争うことになった。しかも弥三郎派(その死後は政長)には細川勝元の支持があり,義就派には政所執事伊勢貞親の力が働いていたために,双方ともに継家を許されたり,処罰を受ける状態を繰り返していた。60年(寛正1)にいたり政長が家督を得,義就は河内国に没落した。…

【松平氏】より

…3代信光は西三河の3分の1を所領とし(《三河物語》),松平氏は大きく発展した。信光は1465年(寛正6)には室町幕府政所執事伊勢貞親の被官であったが,被官衆は伊勢氏管理の将軍直轄領(御料所)代官に任じられる例も多く,松平氏の発展といわれるものは,伊勢氏被官としての活動の結果とみてよいであろう。さらに信光は65年の額田郡牢人一揆鎮圧の戦功により,闕所地を給付されて所領を拡大したと推測され,また応仁・文明の乱では貞親に従って東軍に属し,動乱に乗じて岡崎,安城(あんじよう)などの西三河諸城を入手し,庶子に分与したものと思われる。…

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