伊勢貞親(読み)イセサダチカ

デジタル大辞泉 「伊勢貞親」の意味・読み・例文・類語

いせ‐さだちか【伊勢貞親】

[1417~1473]室町中期の武将有職ゆうそく家。室町幕府政所執事。伊勢守。将軍足利義政信任を得て権勢獲得斯波氏家督相続問題に干渉。また将軍継嗣問題では義視排斥に失敗近江おうみへ逃れるが翌年復職。伊勢流故実の基礎を築いたことでも知られる。

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精選版 日本国語大辞典 「伊勢貞親」の意味・読み・例文・類語

いせ‐さだちか【伊勢貞親】

  1. 室町中期の幕府政所執事(まんどころしつじ)。伊勢守。貞国の子。著書に「伊勢貞親家訓」がある。応永二四~文明五年(一四一七‐七三

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改訂新版 世界大百科事典 「伊勢貞親」の意味・わかりやすい解説

伊勢貞親 (いせさだちか)
生没年:1417-73(応永24-文明5)

室町中期の武将,政所執事。初名は七郎,のち兵庫助,備中守,伊勢守。政所執事貞国の子で,母は蜷川親俊の女。1454年(享徳3)父貞国より伊勢氏の家督を継ぎ,60年(寛正1)政所執事となる。将軍足利義政が彼のもとで養育されたことからその絶大なる信任を得て,寛正ごろには将軍に近侍しその取次ぎにあたる申次衆の過半を貞親の一族で占めるなど,蔭涼軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)とともに幕政において多大な影響力を行使した。66年(文正1)には斯波氏の家督争いに介入し,縁につながる義敏に味方して義廉をしりぞけることを義政にすすめた。また,将軍継嗣問題でも,義政が将軍後継者として立てた義視を除こうとして義政に讒言(ざんげん)し,義視殺害を企てたが失敗して,細川勝元,山名宗全らの諸将に追われ,近江,さらに伊勢へと逃れた。しかし,義政の貞親に対する信頼は変わらず,翌67年(応仁1)には召還されて再び政務を担当した。このことから義政・義視兄弟の対立はいっそう険悪なものとなった。71年(文明3)職を辞して出家し,若狭に移り住んで,その地で世を去った。法号は常慶悦堂聴松院。貞親は和歌,連歌や騎射に長じ,また,永年将軍の側近として仕え,殿中総奉行や御厩別当を務めたことなどから,武家の殿中における礼式に明るく,後世に武家礼式の規範として重んぜられた伊勢流形成にも大きな役割を担った。晩年子の貞宗に書き与えた38ヵ条の教訓《伊勢貞親教訓》には政治の心得や書札に関することなど殿中において心がけるべきこまごまとした注意が述べられている。
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朝日日本歴史人物事典 「伊勢貞親」の解説

伊勢貞親

没年:文明5.2.21(1473.3.19)
生年:応永24(1417)
室町時代の幕府吏僚。貞国の子。兵庫助,伊勢守。享徳3(1454)年,父貞国の跡を継ぎ室町幕府に出仕したが,家職の政所執事は二階堂忠行に奪われ,寛正1(1460)年,ようやく同職に就任した。以後僧録司の相国寺蔭涼軒主季瓊真蘂と組んで次第に幕政に介入し,殿中惣奉行,御厩別当などを兼ね,将軍足利義政の信任を得た。彼らの政治干与を可能にしたのは,将軍義政の無能もあるが,有力守護家の内訌による混乱と,その結果としての宿老政治の破綻であった。文正1(1466)年7月には斯波家の紛議に介入して義敏擁立に動き,同年9月には日野富子の足利義尚出産を奇貨として足利義視暗殺を謀り,細川勝元ら宿老の指弾にあって近江へ逃亡した。これが文正の政変で,半年後にはじまる応仁の大乱の導火線となる。大乱勃発後ほどなく幕政に復帰したが,義視はこれを嫌悪して自ら西軍(山名持豊方)に投じ,戦乱の混迷に拍車をかけた。文明3(1471)年官を辞し,出家。武家故実の権威で,子の貞宗に与えた『伊勢貞親教訓』は賄賂を是認する室町社会の慣習や教育思想を伝える重要史料。大乱の張本人のひとりで,幕府政治の転換点に立つ人物としても興味深い。<参考文献>二木謙一『中世武家儀礼の研究』

(今谷明)

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百科事典マイペディア 「伊勢貞親」の意味・わかりやすい解説

伊勢貞親【いせさだちか】

室町中期の武将。1454年父貞国から家督を継承,1460年政所執事となる。将軍足利義政の信任を得,幕政に多大な影響力を及ぼした。将軍後継問題で後継者に立てられた義視の殺害を企て失敗,細川勝元らに追われたが,義政の信頼は変わらず,1467年召還された。1471年職を辞して出家。子の貞宗に残した《伊勢貞親教訓》には殿中における心懸けなど38ヵ条の注意が述べられており,のちに武家礼式の規範として重んぜられた伊勢流の形成に大きな役割を果たした。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊勢貞親」の意味・わかりやすい解説

伊勢貞親
いせさだちか
(1417―1473)

室町幕府の近臣。貞国(さだくに)の子。初名七郎、兵庫助(ひょうごのすけ)、備中守(びっちゅうのかみ)、伊勢守。1460年(寛正1)政所(まんどころ)執事になった。足利義政(あしかがよしまさ)の養い親であったところから幕府に隠然たる影響力をもち、ことに応仁(おうにん)の乱前後には義政の佞臣(ねいしん)とよばれることもあった。66年(文正1)斯波(しば)家の継嗣(けいし)争いに介入し、義廉(よしかど)を退けて義敏(よしとし)をたてることを義政に進言し、また子供のなかった義政が弟義視(よしみ)を後嗣に据える動きを示すと、讒言(ざんげん)して義視の殺害を計り、失敗して近江(おうみ)(滋賀県)に逃げた。翌67年(応仁1)召還され、政務に復活したが、このため義政、義視の対立はいっそう深刻になった。文明(ぶんめい)5年若狭(わかさ)(福井県)で没した。57歳。法号を聴松院悦堂常慶という。

[桑山浩然]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊勢貞親」の意味・わかりやすい解説

伊勢貞親
いせさだちか

[生]応永24(1417)
[没]文明5(1473).1.21. 若狭
室町幕府政所執事。貞国の子。母は蜷川親俊の娘。幼名は七郎,のち兵庫助。備中守,伊勢守と称した。寛正1 (1460) 年,政所執事,応仁1 (67) 年従四位上。将軍足利義政の信任厚く,相国寺蔭涼軒主季瓊 (→季瓊真蘂〈きけいしんずい〉 ) とともに幕府の実権を握り,専権をふるったが,文正1 (66) 年斯波氏の家督相続問題に関与して諸将の反感を買い,さらに足利義視を義政に讒言して殺害しようとしたことが露見して,近江に逃走した。翌年,義政の召により再び幕府に参与したが,のち文明3 (71) 年に致仕,出家し,聴松軒と号した。著書に『伊勢貞親教訓』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊勢貞親」の解説

伊勢貞親 いせ-さだちか

1417-1473 室町時代の武将,有職(ゆうそく)家。
応永24年生まれ。伊勢貞国の子。長禄(ちょうろく)4年政所(まんどころ)執事となる。かつて養育係をつとめた将軍足利義政の信任を得,季瓊真蕊(きけい-しんずい)とくんで権勢をふるう。足利義視(よしみ)の暗殺に失敗して出奔(しゅっぽん)するが,義政に召還され応仁(おうにん)2年執事に復する。伊勢流故実の基礎をきずいた。文明5年1月21日死去。57歳。号は聴松軒。
【格言など】いかに気にあわざる者来たりとも対面すべし(「伊勢貞親教訓」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊勢貞親」の解説

伊勢貞親
いせさだちか

1417~73.1.21

室町中期の武将。七郎。兵庫助・備中守・伊勢守。法名聴松軒常慶。父は貞国,母は蜷川親俊の女。1460年(寛正元)から政所執事。将軍足利義政の信任をえ,蔭涼軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)とともに幕政を左右した。66年(文正元)足利義視の暗殺を企てて失敗し,近江に逃亡。翌年義政に召還されて政界復帰。71年(文明3)辞任,出家して若狭に隠棲。武家の礼式に通じ,伊勢流故実の形成に大きな役割をはたした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「伊勢貞親」の解説

伊勢貞親
いせさだちか

1417〜73
室町幕府の政所 (まんどころ) 執事
将軍足利義政の信任厚く,政所執事となって幕府の実権を握り専横をきわめたが,1466年足利義視を殺そうとしたことが露見し近江に逃走。翌年義政に召され再び政務に参与した。

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世界大百科事典(旧版)内の伊勢貞親の言及

【足利義政】より

…しかし実権を握り庶政をみたのは管領や山名氏など有力大名と政所執事伊勢氏であった。57年ころよりは伊勢氏の支持によって将軍勢力が強まり,伊勢貞親主導による守護大名抑制政策が行われたが,その過程で畠山・斯波家内の相続争いが利用され,応仁・文明の乱の一因となった。義政は政治力がなく,頼みの伊勢貞親が66年(文正1)大名らの反発により失脚すると,政治収拾は困難となり応仁の乱に突入した。…

【伊勢氏】より

…なお執事のほか,多くの所領を保持し,また大和吉野郡,尾張智多郡等の分郡守護を歴任,応仁の乱後は幾度か山城守護に任ぜられている。職務の性質上,将軍の側近としてしばしば幕政に介入し,とくに60年(寛正1)執事に就任した伊勢貞親は将軍足利義政の寵を受け,相国寺蔭涼軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)らと斯波家,将軍家の家督紛争に関与,諸大名に排斥されて66年(文正1)没落している。最後の執事貞孝も三好長慶と結んだため1563年(永禄6)暗殺された。…

【応仁・文明の乱】より

…ところが54年(享徳3)にいたり,神保・土肥・椎名などの反義就派被官が蜂起し,持国の甥弥三郎を擁立しようとしたことから,畠山氏の家臣たちは2派に分かれて争うことになった。しかも弥三郎派(その死後は政長)には細川勝元の支持があり,義就派には政所執事伊勢貞親の力が働いていたために,双方ともに継家を許されたり,処罰を受ける状態を繰り返していた。60年(寛正1)にいたり政長が家督を得,義就は河内国に没落した。…

【松平氏】より

…3代信光は西三河の3分の1を所領とし(《三河物語》),松平氏は大きく発展した。信光は1465年(寛正6)には室町幕府政所執事伊勢貞親の被官であったが,被官衆は伊勢氏管理の将軍直轄領(御料所)代官に任じられる例も多く,松平氏の発展といわれるものは,伊勢氏被官としての活動の結果とみてよいであろう。さらに信光は65年の額田郡牢人一揆鎮圧の戦功により,闕所地を給付されて所領を拡大したと推測され,また応仁・文明の乱では貞親に従って東軍に属し,動乱に乗じて岡崎,安城(あんじよう)などの西三河諸城を入手し,庶子に分与したものと思われる。…

※「伊勢貞親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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