デジタル大辞泉
「足利義視」の意味・読み・例文・類語
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あしかが‐よしみ【足利義視】
- 室町中期の武将。義教の子。もと浄土寺門跡義尋。寛正五年(一四六四)還俗して兄義政の養子となる。その居所から今出川殿と称された。義政の子義尚(よしひさ)と将軍職を争う。長享三年(一四八九)出家。永享一一~延徳三年(一四三九‐九一)
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足利義視
あしかがよしみ
[生]永享11(1439).閏1.18. 京都
[没]延徳3(1491).1.7. 京都
室町幕府8代将軍義政の弟。初め浄土寺に入って僧となり,義尋といい,准三后となった。しかし義政に実子がなかったため,義政の義子となり,寛正5 (1464) 年 12月2日,還俗して義視と名のった。同日左馬頭従五位下,寛正6 (65) 年 11月 25日参議,12月 17日権大納言。居所が京都今出川にあったので,今出川殿と呼ばれた。同年 11月義政に実子義尚が生れると,生母日野富子は義尚の嗣立を望み,山名持豊 (宗全) を頼った。当時政界では,守護大名細川勝元と山名持豊の両実力者が対立していたが,管領斯波,畠山両家の相続争いをきっかけに,両者の戦いが始り,応仁1 (67) 年5月,細川氏は義視を,山名氏は義尚を奉じて対陣した。義視は戦いを望まず,8月伊勢に逃れて北畠氏を頼った。翌2年9月義政のすすめでいったん帰京した義視は,再び義政と不和になり,11月比叡山に登った。これを聞いた持豊が義視を自軍に迎えたことから,12月義政は義視の官爵剥奪と征討の綸旨を奏請した。ここに義視を奉じる山名軍と,義政,義尚を奉じる細川軍との間に長い応仁・文明の戦乱が続いた (→応仁の乱 ) 。文明9 (77) 年 11月義視は土岐成頼を頼って美濃に下向,この地にとどまった。延徳1 (89) 年3月,義尚が近江守護六角高頼征討中病没すると,義視は義政と和して,子義稙を伴って上洛した。翌2年1月には義政が病没したため,義稙が将軍職を継ぎ,義視が執政したが,義政の死からちょうど1年目の同時刻に義視も病死した。
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足利義視
没年:延徳3.1.7(1491.2.15)
生年:永享11.閏1.18(1439.3.3)
室町時代の武将。義教の子,将軍足利義政の弟。京都室町第で出生。10男という出自の低さから嘉吉3(1443)年浄土寺に入室させられ,義尋と称していったんは世俗の望みを絶たれたが,兄の妻日野富子に男子が生まれず,寛正5(1464)年11月義政の後継に指定された。還俗して義視と改名,従五位下左馬頭に叙任されたが,この官は将軍候補が帯びるもので,邸宅の位置から今出川殿と称された。翌年には参議・左中将,次いで権大納言に進んだが,同年11月富子に義尚が生まれ,富子は山名持豊(宗全)に頼って義視を排せんとし,ここに将軍家跡目争いが勃発。文正1(1466)年9月,蔭涼軒(季瓊)真蘂と政所執事伊勢貞親は共謀して義視の暗殺を計画,義視は恐慌をきたして細川勝元邸に逃亡した。持豊,勝元は一致して義政に貞親らの排除を迫り,真蘂,貞親は近江に逃亡した(文正の政変)。翌年の応仁の乱勃発に伴い,義政が再び貞親を登用,義視は伊勢に逃れ,結局西軍に投じて持豊らにより将軍に擬された。こうして義視は逆賊の汚名を着せられたが,御内書,奉書を発して西軍諸将を督した。文明5(1473)年勝元,持豊らが死ぬと一条兼良は義政との間を斡旋したが,結局大乱収拾後も帰京せず,斎藤妙椿に頼って美濃茜部に寓居した。延徳2(1490)年1月義政の死で嫡男義材が継嗣に指定されると,上洛してこれを後見。同7月義材任官と同時に法体のまま准后の宣を受けたが,翌年病死した。応仁の乱で西軍の将軍格であった事実は重要。
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足利義視 (あしかがよしみ)
生没年:1439-91(永享11-延徳3)
室町中期の武家。今出川殿と号す。義教の子,義政の弟。はじめ浄土寺門跡を継ぎ,法名を義尋(ぎじん)と称したが,義政の実子出生が遅れたため1464年(寛正5)還俗して将軍跡目に推された。しかるにこの直後義政に実子義尚が誕生し,将軍家の家督紛争に発展,義政の近臣である政所執事伊勢貞親,相国寺塔頭(たつちゆう)鹿苑院蔭涼軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)らは義視の暗殺をはかり,事あらわれて翌年逐電,この一件が応仁・文明の乱の導火線となる。乱中は初め東軍に属したが67年(応仁1)9月北畠氏を頼って伊勢多気に寄寓,翌年還京したが貞親との反目から西軍に投じ,乱後まで幕府に抵抗した。のち美濃守護土岐成頼の革手城に流寓したが,89年(延徳1)息子の義稙(よしたね)が将軍跡目に推され,その後見として上京,義政とも和睦した。官位は権大納言に昇り,准三宮に進められたが,幕政に野心なきを示すため再び出家した。
執筆者:今谷 明
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足利義視【あしかがよしみ】
室町時代中期の武家。今出川殿と呼ばれた。足利義教(よしのり)の子。京都浄土寺門跡で義尋(ぎじん)と称したが,1464年還俗(げんぞく)して義視と改名,足利義政の後嗣となる。その後義政の実子足利義尚(よしひさ)の誕生で家督争いがおき,応仁・文明の乱へと発展。乱後,美濃守護土岐氏のもとに寄寓したが,義尚の死により将軍跡目に推された子義材(よしき)(足利義稙)とともに上京,その後見となる。
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足利義視
あしかがよしみ
(1439―1491)
室町中期の武将。義教(よしのり)の子。義政(よしまさ)の弟。極官は正二位、権大納言(ごんだいなごん)。初め浄土寺に入り義尋(ぎじん)と称したが、義政に男子がなかったため、1464年(寛正5)義政の後嗣(こうし)となり、還俗(げんぞく)して名を義視と改め、今出川殿と称した。しかし、1465年義政に実子義尚(よしひさ)が生まれたため、生母日野富子は義視を廃して義尚を継嗣にしようとし、将軍家内部に家督争いが起こった。義視は細川勝元(かつもと)を頼ったが、この争いが応仁(おうにん)の乱の出発点となった。最初義視は東軍細川方に属したが、義政と不和となり、西軍山名宗全(やまなそうぜん)側に投じ、義政と対抗した。将軍義尚の死後、義政と和睦して帰京したが、延徳(えんとく)3年正月7日没した。法号は大智院久山道存。
[伊藤喜良]
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足利義視
あしかがよしみ
1439.閏1.18~91.1.7
室町中期の武将。6代将軍義教の子。正二位権大納言・贈従一位太政大臣。はじめ浄土寺に入室して義尋(ぎじん)。1464年(寛正5)兄将軍義政の継嗣として還俗,義視と改名。翌年,義政に実子義尚が誕生,両者の継嗣争いが応仁・文明の乱の一因になる。乱の勃発直後伊勢へ下る。68年(応仁2)義政の要請で上洛して東軍の陣へ入るが,義政との不和は解消せず,比叡山をへて西軍の陣に迎えられた。77年(文明9)京都での戦闘が終息すると美濃へ下向,義政と和睦後も同地に留まった。89年(長享3)義尚の死後子義材(よしき)と上洛,通玄寺で剃髪。翌年義材(義稙(よしたね))が将軍になると准三宮とされたが,まもなく病没。
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足利義視 あしかが-よしみ
1439-1491 室町時代の武将。
永享11年閏(うるう)1月18日生まれ。足利義教(よしのり)の10男。浄土寺門跡(もんぜき)をついだが,寛正(かんしょう)5年還俗(げんぞく)して兄の8代将軍義政(よしまさ)の後継となり,今出川殿とよばれる。その直後義政に実子義尚(よしひさ)が生まれ家督争いがおこり,応仁(おうにん)の乱の一因となる。乱でははじめ東軍につくが,のち西軍に転じ,乱の終結後に義政と和睦(わぼく)した。延徳3年1月7日死去。53歳。初名は義躬(よしみ)。法名は義尋。法号は大智院。
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足利義視
あしかがよしみ
1439〜91
室町中期の武将
8代将軍義政の養子。義教 (よしのり) の子。義稙 (よしたね) の父。初め浄土寺の僧義尋 (ぎじん) と称した。1464年兄将軍義政の後嗣となったが,義政に実子義尚 (よしひさ) が生まれたため相続問題がおこり,'67年応仁の乱勃発の一因となる。晩年義政と和し,三条通玄寺に入り,間もなく死んだ。
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足利義視 (あしかがよしみ)
生年月日:1439年1月18日
室町時代;戦国時代の武将。第8代将軍足利義政の弟
1491年没
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