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足利義視 あしかが よしみ

美術人名辞典の解説

足利義視

室町後期の武将。六代将軍義教の子。浄土寺に入り義尋と称したが、兄義政の後嗣となり還俗して義視と改名、今出川殿と呼ばれた。しかし義政に実子義尚が誕生したため、継嗣争いから応仁の乱を誘発し、義視は伊勢に逃れ、次いで西軍に投じた。のち土岐氏を頼って美濃へ下ったが、義尚の死で子義材が将軍となると、上洛して幕政を後見した。延徳3年(1491)歿、53才。

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デジタル大辞泉の解説

あしかが‐よしみ【足利義視】

[1439~1491]室町中期の武将。義教の子。義政の弟。兄の養子となって将軍後継者に擬せられたが、義尚(よしひさ)が生まれてから継嗣争いが起こり、応仁の乱を誘発した。今出川殿。

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百科事典マイペディアの解説

足利義視【あしかがよしみ】

室町時代中期の武家。今出川殿と呼ばれた。足利義教(よしのり)の子。京都浄土寺門跡で義尋(ぎじん)と称したが,1464年還俗(げんぞく)して義視と改名,足利義政の後嗣となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

足利義視 あしかが-よしみ

1439-1491 室町時代の武将。
永享11年閏(うるう)1月18日生まれ。足利義教(よしのり)の10男。浄土寺門跡(もんぜき)をついだが,寛正(かんしょう)5年還俗(げんぞく)して兄の8代将軍義政(よしまさ)の後継となり,今出川殿とよばれる。その直後義政に実子義尚(よしひさ)が生まれ家督争いがおこり,応仁(おうにん)のの一因となる。乱でははじめ東軍につくが,のち西軍に転じ,乱の終結後に義政と和睦(わぼく)した。延徳3年1月7日死去。53歳。初名は義躬(よしみ)。法名は義尋。法号大智院

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朝日日本歴史人物事典の解説

足利義視

没年:延徳3.1.7(1491.2.15)
生年:永享11.閏1.18(1439.3.3)
室町時代の武将。義教の子,将軍足利義政の弟。京都室町第で出生。10男という出自の低さから嘉吉3(1443)年浄土寺に入室させられ,義尋と称していったんは世俗の望みを絶たれたが,兄の妻日野富子に男子が生まれず,寛正5(1464)年11月義政の後継に指定された。還俗して義視と改名,従五位下左馬頭に叙任されたが,この官は将軍候補が帯びるもので,邸宅の位置から今出川殿と称された。翌年には参議・左中将,次いで権大納言に進んだが,同年11月富子に義尚が生まれ,富子は山名持豊(宗全)に頼って義視を排せんとし,ここに将軍家跡目争いが勃発。文正1(1466)年9月,蔭涼軒(季瓊)真蘂と政所執事伊勢貞親は共謀して義視の暗殺を計画,義視は恐慌をきたして細川勝元邸に逃亡した。持豊,勝元は一致して義政に貞親らの排除を迫り,真蘂,貞親は近江に逃亡した(文正の政変)。翌年の応仁の乱勃発に伴い,義政が再び貞親を登用,義視は伊勢に逃れ,結局西軍に投じて持豊らにより将軍に擬された。こうして義視は逆賊の汚名を着せられたが,御内書,奉書を発して西軍諸将を督した。文明5(1473)年勝元,持豊らが死ぬと一条兼良は義政との間を斡旋したが,結局大乱収拾後も帰京せず,斎藤妙椿に頼って美濃茜部に寓居した。延徳2(1490)年1月義政の死で嫡男義材が継嗣に指定されると,上洛してこれを後見。同7月義材任官と同時に法体のまま准后の宣を受けたが,翌年病死した。応仁の乱で西軍の将軍格であった事実は重要。

(今谷明)

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世界大百科事典 第2版の解説

あしかがよしみ【足利義視】

1439‐91(永享11‐延徳3)
室町中期の武家。今出川殿と号す。義教の子,義政の弟。はじめ浄土寺門跡を継ぎ,法名を義尋(ぎじん)と称したが,義政の実子出生が遅れたため1464年(寛正5)還俗して将軍跡目に推された。しかるにこの直後義政に実子義尚が誕生し,将軍家の家督紛争に発展,義政の近臣である政所執事伊勢貞親,相国寺塔頭(たつちゆう)鹿苑院蔭涼軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)らは義視の暗殺をはかり,事あらわれて翌年逐電,この一件が応仁・文明の乱の導火線となる。

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大辞林 第三版の解説

あしかがよしみ【足利義視】

1439~1491) 室町時代の武将。義教よしのりの子。義政の弟。今出川殿。浄土寺の僧となり義尋と称す。のち還俗げんぞくして義政の後嗣となり義視と改名。翌年、義政の妻日野富子に義尚よしひさが誕生したことから将軍継嗣争いとなり、義政と対立、応仁の乱を誘発した。乱後、実子義稙よしたねが将軍となり、その後見役。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

足利義視
あしかがよしみ

[生]永享11(1439).閏1.18. 京都
[没]延徳3(1491).1.7. 京都
室町幕府8代将軍義政の弟。初め浄土寺に入って僧となり,義尋といい,准三后となった。しかし義政に実子がなかったため,義政の義子となり,寛正5 (1464) 年 12月2日,還俗して義視と名のった。同日左馬頭従五位下,寛正6 (65) 年 11月 25日参議,12月 17日権大納言。居所が京都今出川にあったので,今出川殿と呼ばれた。同年 11月義政に実子義尚が生れると,生母日野富子は義尚の嗣立を望み,山名持豊 (宗全) を頼った。当時政界では,守護大名細川勝元と山名持豊の両実力者が対立していたが,管領斯波,畠山両家の相続争いをきっかけに,両者の戦いが始り,応仁1 (67) 年5月,細川氏は義視を,山名氏は義尚を奉じて対陣した。義視は戦いを望まず,8月伊勢に逃れて北畠氏を頼った。翌2年9月義政のすすめでいったん帰京した義視は,再び義政と不和になり,11月比叡山に登った。これを聞いた持豊が義視を自軍に迎えたことから,12月義政は義視の官爵剥奪と征討の綸旨を奏請した。ここに義視を奉じる山名軍と,義政,義尚を奉じる細川軍との間に長い応仁・文明の戦乱が続いた (→応仁の乱 ) 。文明9 (77) 年 11月義視は土岐成頼を頼って美濃に下向,この地にとどまった。延徳1 (89) 年3月,義尚が近江守護六角高頼征討中病没すると,義視は義政と和して,子義稙を伴って上洛した。翌2年1月には義政が病没したため,義稙が将軍職を継ぎ,義視が執政したが,義政の死からちょうど1年目の同時刻に義視も病死した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

足利義視
あしかがよしみ
(1439―1491)

室町中期の武将。義教(よしのり)の子。義政(よしまさ)の弟。極官は正二位、権大納言(ごんだいなごん)。初め浄土寺に入り義尋(ぎじん)と称したが、義政に男子がなかったため、1464年(寛正5)義政の後嗣(こうし)となり、還俗(げんぞく)して名を義視と改め、今出川殿と称した。しかし、1465年義政に実子義尚(よしひさ)が生まれたため、生母日野富子は義視を廃して義尚を継嗣にしようとし、将軍家内部に家督争いが起こった。義視は細川勝元(かつもと)を頼ったが、この争いが応仁(おうにん)の乱の出発点となった。最初義視は東軍細川方に属したが、義政と不和となり、西軍山名宗全(やまなそうぜん)側に投じ、義政と対抗した。将軍義尚の死後、義政と和睦して帰京したが、延徳(えんとく)3年正月7日没した。法号は大智院久山道存。[伊藤喜良]

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367日誕生日大事典の解説

足利義視 (あしかがよしみ)

生年月日:1439年1月18日
室町時代;戦国時代の武将。第8代将軍足利義政の弟
1491年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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