会津八一(読み)アイヅヤイチ

デジタル大辞泉 「会津八一」の意味・読み・例文・類語

あいづ‐やいち〔あひづ‐〕【会津八一】

[1881~1956]美術史学者・歌人書家新潟の生まれ。号は秋艸道人しゅうそうどうじん渾斎こんさい早大教授歌集に「鹿鳴集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「会津八一」の意味・読み・例文・類語

あいづ‐やいち【会津八一】

  1. 歌人。美術史家。書家。新潟県出身。号は秋艸道人、渾斎など。早稲田大学教授。中国の古美術、大和の文化に造詣が深い。正岡子規に傾倒。万葉調、良寛調の独特の歌風をもつ歌集「鹿鳴集」「南京新唱」などがある。明治一四~昭和三一年(一八八一‐一九五六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「会津八一」の意味・わかりやすい解説

会津八一
あいづやいち
(1881―1956)

歌人、書家、美術史家。明治14年8月1日新潟町(現新潟市)に生まれる。秋艸道人(しゅうそうどうじん)、八朔(はっさく)、渾斎(こんさい)などと号す。1906年(明治39)早稲田(わせだ)大学文学部を卒業、もっぱら坪内逍遙(しょうよう)に師事する。1908年、奈良の古寺を巡遊し、短歌を始める。1910年、新潟県下の有恒(ゆうこう)学舎を辞し早稲田中学に転任、1913年(大正2)早稲田大学英文科講師となる。奈良美術研究のかたわら南都に取材して盛んに短歌をつくる。1924年『南京新唱(なんきょうしんしょう)』を上梓(じょうし)、1931年(昭和6)早稲田大学文学部教授となり、仏教美術史に関する論文をしきりに発表する。1933年「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」をもって学位を受ける。1940年『鹿鳴集(ろくめいしゅう)』を出版、1942年『渾斎随筆』を刊行、このころから書の個展をしばしば催し、書名ようやく高くなる。1945年1月、早大教授を辞任、4月14日、米軍機の東京爆撃で罹災(りさい)、5月、新潟県中条町(現胎内(たいない)市)に寓居(ぐうきょ)、ついで新潟市に転居。1947年(昭和22)『寒燈(かんとう)集』、1952年『自註(じちゅう)鹿鳴集』、1955年『春日野(かすがの)の歌』などを上梓し、独自の歌風、書格をもって世に知られるようになる。昭和31年11月21日死去。

宮川寅雄

『『会津八一全集』全12巻(1982・中央公論社)』『宮川寅雄著『会津八一の世界』(1978・文一総合出版)』

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20世紀日本人名事典 「会津八一」の解説

会津 八一
アイヅ ヤイチ

大正・昭和期の歌人,美術史家,書家 早稲田大学名誉教授。



生年
明治14(1881)年8月1日

没年
昭和31(1956)年11月21日

出生地
新潟県新潟市古町通

別名
別号=秋艸道人(シュウソウドウジン),渾斎(コンサイ)

学歴〔年〕
早稲田大学文科英文科〔明治39年〕卒

学位〔年〕
文学博士〔昭和9年〕

主な受賞名〔年〕
読売文学賞(第2回・詩歌賞)〔昭和25年〕「会津八一全歌集」,新潟市名誉市民

経歴
中学時代から作歌、作句をし、大学では英文学を学ぶ。明治39年新潟県の有恒学舎英語教員となり、43年早稲田中学に移り、大正14年早稲田高等学院教授に就任。15年から早大講師を兼ね、昭和6〜20年教授。傍ら大正13年歌集「南京新唱」を刊行、以後「鹿鳴集」「山光集」「寒燈集」などを刊行し、昭和25年「会津八一全歌集」で読売文学賞を受賞。また、美術史でも学位論文となった「法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究」を8年に刊行、東洋美術史、奈良美術史の研究で活躍した。書家としてもすぐれ、書跡集に「渾斎近墨」「遊神帖」などがある。早大退任後は夕刊ニイガタ社長などもつとめ、新潟市名誉市民に推され、文化人として幅広く活躍。大和や新潟に歌碑も多い。「会津八一全集」(全10巻 中央公論社)がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「会津八一」の意味・わかりやすい解説

会津八一 (あいづやいち)
生没年:1881-1956(明治14-昭和31)

歌人,書家,美術史家。秋艸道人(しゆうそうどうじん),渾斎(こんさい)の号も用いた。新潟市に生まれ,早熟の天才ぶりを発揮し,中学時代すでに新聞俳壇の選者になったり,当時北陸旅行中の尾崎紅葉の話相手をつとめたり,まだ評価の定まっていなかった良寛和尚の芸術をいちはやく認めて正岡子規に知らせたりした。早稲田大学英文科では坪内逍遥の知遇を得,卒業後,早稲田中学の教師を経て,1926年以降,早稲田大学で東洋美術史を講じ,34年《法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究》(1933)で文学博士の学位を受けた。45年,戦災に遭ったのを機に郷里へ帰り,二度と東京へは戻らなかった。容貌魁偉,人柄も狷介(けんかい)孤高,かずかずの逸話を残したが,最後の東洋的文人だったことに間違いない。総ひらがなの万葉調短歌は初めから完成体を示し,《南京新唱(なんきようしんしよう)》(1924)およびそれを発展させた《鹿鳴集(ろくめいしゆう)》(1940)は昭和歌壇の圏外にありながら昭和短歌を代表する秀歌群として聳立(しようりつ)する。〈おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ〉(《鹿鳴集》唐招提寺にて)。書家としても令名高く,漢・魏・六朝以来の中国書道の伝統を貪欲に摂取しつつ独自の道人風を成就し,これまた昭和書道作家を見おろして聳立する。《会津八一全集》全10巻(1968-69)がある。
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百科事典マイペディア 「会津八一」の意味・わかりやすい解説

会津八一【あいづやいち】

歌人,書家,美術史家。新潟の人。秋艸(しゅうそう)道人,渾斎と号す。早大英文科卒。奈良の古美術などを主題にした,総ひらがなの万葉調和歌や,独特の書で有名。早大で英文学と東洋美術の講座を担当。《法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究》,歌集《南京(なんきょう)新唱》《鹿鳴集》等多くの著作がある。
→関連項目新潟県立近代美術館吉野秀雄

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「会津八一」の解説

会津八一 あいづ-やいち

1881-1956 大正-昭和時代の歌人,美術史家,書家。
明治14年8月1日生まれ。大正13年第1歌集「南京(なんきょう)新唱」を出版。東洋美術史を研究し,昭和6年母校早大の教授。20年郷里新潟にかえり,「寒灯(かんとう)集」などを刊行,26年「会津八一全歌集」で読売文学賞。書は独自の風格をもつ。昭和31年11月21日死去。75歳。号は秋艸(しゅうそう)道人,渾斎。
【格言など】あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ(「鹿鳴集」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「会津八一」の解説

会津八一
あいづやいち

1881.8.1~1956.11.21

大正・昭和期の美術史家・歌人・書家。雅号秋艸(しゅうそう)道人・渾斎(こんさい)。新潟県出身。早大卒。大和旅行を機に奈良美術研究を志す。1926年(昭和元)以降早稲田大学で日本・東洋両美術史を講義。博士論文「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」。大和国の風物をよんだ歌集「南京新唱」は万葉調を借りながら独自の澄明な歌境をうちたてている。ほかに歌集「鹿鳴(ろくめい)集」。書の道にもすぐれ,個展をしばしば開催。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「会津八一」の意味・わかりやすい解説

会津八一
あいづやいち

[生]1881.8.1. 新潟
[没]1956.11.21. 新潟
歌人,書家。別号,秋艸 (しゅうそう) 道人。 1906年早稲田大学英文科卒業。文学博士。 31年早大教授。美術史を講じた。万葉調を近代化した独自の歌風を歌集『鹿鳴集』 (1940) で樹立,人生詩人の評価を高めた。『会津八一全歌集』 (50) で読売文学賞受賞。

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367日誕生日大事典 「会津八一」の解説

会津 八一 (あいづ やいち)

生年月日:1881年8月1日
大正時代;昭和時代の歌人;美術史家;書家。早稲田大学教授
1956年没

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