日本歴史地名大系 「会津西街道」の解説
会津西街道
あいづにしかいどう
日光街道今市宿の中央から北に分れ、
寛永二〇年(一六四三)会津藩主となった保科正之は、日光参詣や江戸往復の最短路としてこの道を整備したが、鬼怒川上流から
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
日光街道今市宿の中央から北に分れ、
寛永二〇年(一六四三)会津藩主となった保科正之は、日光参詣や江戸往復の最短路としてこの道を整備したが、鬼怒川上流から
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…また久保田から本荘,酒田を通り,鼠ヶ関を越えて越後に入る浜街道は新潟を経て北国街道に連結した。会津から南下する会津西街道は今市で日光道中に結ぶ。また奥州街道の岩沼から太平洋沿岸を南下するのは浜通りとも浜街道ともいい,相馬中村,磐城平を経て,勿来(なこそ)の関を越えて常陸に入り,水戸街道につながる。…
※「会津西街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」