大山寺(読み)タイサンジ

デジタル大辞泉 「大山寺」の意味・読み・例文・類語

たいさん‐じ【大山寺】

神奈川県伊勢原市大山おおやまにある真言宗大覚寺派の寺。山号は雨降山あぶりさん。開創は天平勝宝7年(755)、開山は良弁。鎌倉末期に真言僧の願行が再興、江戸時代には大山講として関東一円に信仰された。神仏分離後は、阿夫利神社大山不動尊に分立。おおやまでら。

だいせん‐じ【大山寺/大仙寺】

鳥取県西伯郡大山町、大山の中腹にある天台宗別格本山。山号は角磐山。草創は奈良時代。古くから山岳修験道の道場であったが、貞観年間(859~877)円仁が堂宇を建立し、天台宗に改めたという。明治維新後の神仏分離で廃寺となったが、明治36年(1903)復号を許された。

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精選版 日本国語大辞典 「大山寺」の意味・読み・例文・類語

たいさん‐じ【大山寺】

  1. 神奈川県伊勢原市大山(おおやま)にある真言宗大覚寺派の寺。山号は雨降(あふり)山。天平勝宝七年(七五五)良弁(ろうべん)の開創と伝えられる。鎌倉時代に源頼朝などの帰依をうけて栄えたが源氏滅亡後衰え、鎌倉末期、願行により中興。明治維新後、本殿は阿夫利神社と改称。大正五年(一九一六)旧号に復し、現在地に本堂を再建。成田不動高幡不動とともに関東三不動の一つ。おおやまでら。大山不動。石尊権現

だいせん‐じ【大山寺・大仙寺】

  1. 鳥取県西伯郡大山町にある天台宗の寺。山号は角磐山。養老年間(七一七‐七二四)金蓮が創建。朝廷の崇敬をうけて勅願寺となる。後醍醐天皇の隠岐脱出にさいしては、ここの僧兵が守護した。慶長年間(一五九六‐一六一五)豪円が中興。大山さん。

おおやま‐でらおほやま‥【大山寺】

  1. 神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の寺、大山寺(たいさんじ)の別称。

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日本歴史地名大系 「大山寺」の解説

大山寺
だいせんじ

[現在地名]大山町大山

大山中腹にある。角盤山と号し天台宗。本尊は地蔵菩薩。大山は「出雲国風土記」には「大神嶽」と記され、大国主命が国引のときに杭にした山とされる。信仰の山で、のち天台仏教と結び付いて大山一山が成立した。開山以来明治初年まで大山寺という寺自体は存在しなかったが、一山の諸院・堂社を総称する意味で便宜的に大山寺とよばれることはあった。

〔開山の由来と地蔵信仰〕

開山の時期は不詳だが、奈良時代にさかのぼるとされる。現洞明どうみよう院所蔵の「大山寺縁起」は、焼失した応永五年(一三九八)八月一日の奥書をもつ「大山寺縁起絵巻」の原本とされるものである。この「大山寺縁起」によると、都卒天の巽の角から落ちた磐石が三つに割れ、一つは熊野山、もう一つは金峯きんぶ山、残る一つが大山になったといい、この伝説が山号の由来とされている。役小角が修行したともされる。また大山は養老年間(七一七―七二四)に金蓮によって開かれたとある。金蓮は出雲国玉作たまつくりの人で俗名依道といい、金色の狼を追って大山山中で地蔵菩薩を感得、出家して地蔵を祀り、さらに釈迦如来を祀る南光なんこう院、阿弥陀如来を祀る西明さいみよう院を開いたという。これとは別に大日如来と不動明王を祀る中門ちゆうもん院も開かれた。これらの伝承から、大山は奈良時代頃から山林修行の聖地として発達し、のちに仏教の道場として発展していったとみることができる。大山信仰の中心は地蔵信仰で、「大山寺縁起」には、生身の地蔵に出会うことを大山で念じた備後神石かめしの僧が、霊夢により下野国岩船いわふね(現栃木県岩舟町)に赴く話を載せる。僧は岩船で、田植など耕作を手伝う地蔵坊に会い、生身の地蔵であると感服したが、地蔵坊は伯耆大山にこそ生身の地蔵菩薩がいると説き、一握りの米を与えたと伝える。大山の地蔵はやがて大山権現、さらに大智明権現(智明権現)と名を変え、同権現を祀る社が大山の本社とされた。

平安初期天台座主円仁が入山したという伝説があり、縁起では帰朝の途次、麓の汗入あせり稲光いなみつの里(現大山町)を通過したと記している。また「入唐求法巡礼行記」には承和一四年(八四七)一〇月二八日、円仁は「大山寺」に綵帛使を送り金剛般若経を転読させたとある。このような円仁入山伝説は鳥取県下ではほかに三徳山三仏さんぶつ(現三朝町)や桜山大日だいにち(現倉吉市)にも残り、天台宗との結び付きを示すものと考えられる。大山の天台宗寺院としての成立は九世紀末から一〇世紀頃と推定できよう。


大山寺
たいさんじ

[現在地名]伊勢原市大山

大山の東の中腹にある。雨降山と号し真言宗大覚寺派。本尊は鉄造不動明王坐像および矜羯羅・制多迦両童子。明治初年までは大山山頂の石尊せきそん社とともに信仰の中心で、明治までは「おおやまでら」とよばれた。

天平勝宝七年(七五五)良弁の開基と伝えられる。「大山寺縁起」によれば良弁は相模国の国司太郎大夫時忠の子で、生後まもなく金色の鷲にさらわれて奈良の覚明の坊の傍らの山中に運ばれ、覚明に育てられた。奈良東大寺の初代別当となってのち年老いた両親と再会、故郷の相模国へ戻り、大山へ入って不動堂を開いたという。天平宝字五年(七六一)光増は行基の遺命により不動明王像を刻んで本堂の本尊とした。元慶三年(八七九)地震で伽藍・仏像の多くが灰燼に帰し、同八年安然により再興された(以上「風土記稿」)。「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)九月一七日条には「相模国大山寺免田五町畠八町任先例可引募」との源頼朝の下知が出され、建久三年(一一九二)五月八日条には鎌倉南御堂みなみのみどう(勝長寿院)で行われた後白河法皇の四十九日の仏事に参加した一〇〇人の僧のなかに「大山寺三口」、同年八月九日北条政子の実朝出産の際安産祈願のため誦経を行った寺のなかに「大山寺」がみえ、鎌倉初期には相模国内の有力寺院となっていた。建保二年(一二一四)一二月一日には相模国丸嶋まるしま(現平塚市)のうちから五町二反の田が大山寺免田に充てられている(吾妻鏡)

貞和三年(一三四七)一一月二九日の鎌倉府奉行人連署奉書写(県史三)によれば、この頃、当寺の造営が企てられ、鎌倉府も協力を約している。文和元年(一三五二)一〇月一日には足利尊氏から丸嶋郷が寄進されている(「将軍足利尊氏御教書写」同書)。尊氏は同二年五月四日に「天下安全」を(「将軍足利尊氏御教書写」同書)、同年六月二三日には「凶徒退治」を(「将軍足利尊氏御教書」同書)、また足利基氏も貞治三年(一三六四)四月二六日に「天下安全」を祈念せよと当寺衆徒に命じており(「関東公方足利基氏御教書写」同書)、足利氏一門の信仰が厚かった。


大山寺
たいさんじ

[現在地名]上板町神宅

阿讃あさん山脈のおお(六九一・三メートル)中腹、大山畑おおやまはた地区にある。仏王山玉林院と号し、真言宗醍醐派。本尊は千手観音。寺伝では最初天台宗であったが、弘法大師によって真言宗に改宗されたとするが不詳。享保一五年(一七三〇)の寺社領相記帳には寺廻山一ヵ所・屋敷一町四方と記され、「阿波志」では采地六反とある。大山山頂付近の経塚より出土したとされる経筒が、寺宝として伝えられている。「阿波志」によれば元禄年中(一六八八―一七〇四)地中より掘出されたとある。経筒は銅鋳製で総高三四・五センチ、口径一七・五センチである。


大山寺
たいさんじ

[現在地名]桂村高根

那珂川から西北へ三〇〇メートルほど入った高台にある。高根山と号し、真言宗豊山派。本尊は大日如来と弘法大師の筆になるといわれる乾闥婆王尊。弘仁元年(八一〇)の創立とされ、最初は符貴山金剛王院妙法みようほう寺と称したが、長禄元年(一四五七)大山氏が本堂を建立、寺名を閑心院高根山大山寺と改めた。「新編常陸国誌」には「高根ヲ大山高根ト云、ユヘニ寺号トモナレルナルベシ」とある。代々大山おおやま城主の帰依深く、とくに天文一六年(一五四七)三月二一日大山因幡守源義勝が奉納した祈願文は無事男子を授かった感謝の願文で、現在村指定の文化財。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大山寺」の意味・わかりやすい解説

大山寺(たいさんじ、神奈川県)
たいさんじ

神奈川県伊勢原(いせはら)市大山(おおやま)にある寺。真言(しんごん)宗大覚寺(だいかくじ)派の準大本山。山号は雨降山(うこうざん)。本尊は不動明王および二童子像。かつては「おおやまでら」といい、通称「大山(おおやま)の不動さん」として親しまれてきた。755年(天平勝宝7)奈良東大寺の別当良弁(ろうべん)僧正の開山と伝える。聖武(しょうむ)天皇の勅願寺で、鎮護国家の道場として栄えた。良弁が建立した不動堂は、879年(元慶3)の地震による大火で本尊とともに焼失した。その後、文永(ぶんえい)年間(1264~75)鎌倉の真言僧願行上人(がんぎょうしょうにん)が再興。上人は鉄鋳の不動明王を造像。これは「試し不動」と称され、現在鎌倉の覚園(かくおん)寺にある。ついで鉄鋳不動明王の大像・制多迦(せいたか)・衿迦羅(くりから)童子像(国重要文化財)をつくり山上に安置した。代々、鎌倉・室町幕府、後北条(ごほうじょう)氏に保護され、兵力を繰り出してきたが、1605年(慶長10)徳川家康は武力を心がける不学不律の僧を下山させて清僧の地とした。高野山(こうやさん)の実雄法印を学頭として改革し多大の保護を加え、大山不動参りが江戸大衆のなかにも広まった。神仏習合のころは修験(しゅげん)の道場として栄えたが、明治の神仏分離によりその地位を阿夫利(あふり)神社に譲り、現在の地に移った。

[野村全宏]

『宇都宮泰長・鈴木隆良著『大山不動と日向薬師』(1981・鵬和出版)』


大山寺(だいせんじ、鳥取県)
だいせんじ

鳥取県西伯(さいはく)郡大山町大山にある寺。天台宗の別格本山。角磐(かくばん)山と号する。本尊は地蔵菩薩(じぞうぼさつ)。養老(ようろう)年間(717~724)に金蓮上人(こんれんしょうにん)が開基したと伝え、地蔵菩薩を祀(まつ)り、767年(神護景雲1)称徳(しょうとく)天皇より大智明大権現(だいごんげん)の宝号を賜った。古来修験(しゅげん)の道場であったが、866年(貞観8)慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)が留錫(りゅうしゃく)し阿弥陀(あみだ)仏を安置、大山寺と名づけ天台宗に列したという。平安時代には3000人余の僧兵を擁し、強大な勢力をもち、1333年(元弘3・正慶2)大山別当源盛(げんせい)は後醍醐(ごだいご)天皇を擁し、大山寺の僧を率いて船上山(せんじょうさん)で戦った。戦国時代には、尼子(あまご)氏、毛利(もうり)氏などの崇敬厚く、堂宇の再建、領地の寄進を受けた。

 江戸時代、中興の祖豪円(ごうえん)の上申によって徳川家康より3000石の朱印状を受け、寺威盛んとなったが、維新時の神仏分離によって大神山(おおがみやま)神社奥宮(おくのみや)となり廃寺の憂き目にあった。1903年(明治36)復号を許された。阿弥陀堂、木造阿弥陀三尊像、銅造観世音(かんぜおん)菩薩立像3体、銅造十一面観音(かんのん)立像は、いずれも国の重要文化財に指定されている。

[中山清田]



大山寺(だいせんじ、神奈川県)
だいせんじ

大山寺

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改訂新版 世界大百科事典 「大山寺」の意味・わかりやすい解説

大山寺 (だいせんじ)

鳥取県西伯郡大山町にある天台宗の寺。山号は角磐山。寺伝によれば,出雲国玉造の俊方という猟師が地蔵菩薩の霊験によって発心し,金蓮上人となって開基したという。古代から神聖な山と仰がれた大山は,平安時代に入ると修験道の行場として知られるようになった。やがて,地蔵菩薩を本地とする大智明権現を核に,釈迦,阿弥陀,大日の信仰をそれぞれ中心とする南光院,西明院,中門院と付属の堂舎僧坊群が形成され,延暦寺の末寺に組み入れられていった。その時期は不明だが,《中右記》によると,1094年(嘉保1)300人余の大衆が上洛して天台座主を訴えているから,少なくとも11世紀には,山陰道屈指の天台寺院に成長していたことがわかる。中世には,基好(きこう)のような学匠も出たが,一方では強力な僧兵集団も擁していた。近世には寺領3000石。寺内は一種の自治をしき,〈1山3院42坊〉と称される大勢力を維持した。神仏分離によって1875年寺号を廃されたが,1903年大日堂を中心に,大山寺が復活した。西明院に属する阿弥陀堂と阿弥陀如来座像は,ともに重要文化財に指定されている。
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百科事典マイペディア 「大山寺」の意味・わかりやすい解説

大山寺【だいせんじ】

鳥取県大山町にある天台宗の寺。大仙寺とも書く。奈良時代に金蓮(こんれん)が開創。円仁が丈六の地蔵菩薩をまつり,堂宇を建立した。中世以後,修験道の大道場として栄えた。明治維新の神仏分離により,本堂は大神山(おおがみやま)神社の奥宮となり,大日堂は地蔵堂と改められ,寺名を廃したが,のち復した。西明院谷の阿弥陀堂は鎌倉時代の建築で,白鳳(はくほう)仏3体と藤原末期の阿弥陀三尊像を蔵する。
→関連項目円教寺大山(鳥取)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大山寺」の解説

大山寺
だいせんじ

鳥取県大山町にある天台宗の寺。役小角(えんのおづの)の創建とも,出雲国の金蓮(こんれん)上人の開山ともいう。平安初期に慈覚大師円仁が入寺したと伝えられ,平安時代に南光院・西明院・中門院の3院からなる天台宗寺院として確立。多くの僧をかかえ,ときには上洛強訴するなど強大な勢力をもった。地蔵菩薩を本地とする智明権現を祭る修験の山としても知られた。1875年(明治8)の神仏分離で廃されたが,のち復興。銅造観世音菩薩像や鉄製厨子(いずれも重文)などがある。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「大山寺」の解説

大山寺
(通称)
たいさんじ

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
大山寺薬師の開帳
初演
元禄12.1(大坂・岩井半四郎座)

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デジタル大辞泉プラス 「大山寺」の解説

大山寺

鳥取県西伯郡大山(だいせん)町にある寺院。天台宗別格本山。山号は角磐山。養老年間の開基と伝わる。阿弥陀堂、木造阿弥陀三尊像などは国の重要文化財に指定。

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事典・日本の観光資源 「大山寺」の解説

大山寺

(神奈川県伊勢原市)
かながわの建築物100選」指定の観光名所。

大山寺(第29番)

(鳥取県西伯郡大山町)
中国三十三観音霊場」指定の観光名所。

大山寺

(鳥取県西伯郡大山町)
鳥取県民の建物百選」指定の観光名所。

大山寺

(鳥取県西伯郡大山町)
天台宗三大道場」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の大山寺の言及

【大山】より

… 大山の標高は富士山の半分にもみたないが,日本海に近く,直接北西季節風の影響を受けるため,気候の垂直的変化が大きく,生物相も多彩である。山麓一帯は栗,ナラなどの落葉樹や松,杉の針葉樹林で,標高660mの大山寺付近からブナ,ミズナラなどの落葉広葉樹林帯となる。ブナは大山を代表する樹木で,初夏は緑,秋はあざやかな黄色で山を彩る。…

【伯耆国】より

…国内の式内社は,国名のもとになったとされる天神川下流域の波々伯(ははき)神社を含め6座(いずれも小社)を数えるにすぎないが,大山(だいせん)や三徳(みとく)山など古来著名な修験霊場が多くの崇敬を集めていた。これらの山には平安期に大山寺三仏寺などの山岳寺院が建立され,密教系寺院の一大勢力地域を形成した。中でも大山寺は平安末期の最盛期には300名に上る僧兵を擁したといわれ,山陰地域一帯に勢力を誇った。…

※「大山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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