開山の時期は不詳だが、奈良時代にさかのぼるとされる。現
平安初期天台座主円仁が入山したという伝説があり、縁起では帰朝の途次、麓の
大山の東の中腹にある。雨降山と号し真言宗大覚寺派。本尊は鉄造不動明王坐像および矜羯羅・制多迦両童子。明治初年までは大山山頂の
天平勝宝七年(七五五)良弁の開基と伝えられる。「大山寺縁起」によれば良弁は相模国の国司太郎大夫時忠の子で、生後まもなく金色の鷲にさらわれて奈良の覚明の坊の傍らの山中に運ばれ、覚明に育てられた。奈良東大寺の初代別当となってのち年老いた両親と再会、故郷の相模国へ戻り、大山へ入って不動堂を開いたという。天平宝字五年(七六一)光増は行基の遺命により不動明王像を刻んで本堂の本尊とした。元慶三年(八七九)地震で伽藍・仏像の多くが灰燼に帰し、同八年安然により再興された(以上「風土記稿」)。「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)九月一七日条には「相模国大山寺免田五町畠八町任先例可引募」との源頼朝の下知が出され、建久三年(一一九二)五月八日条には鎌倉
貞和三年(一三四七)一一月二九日の鎌倉府奉行人連署奉書写(県史三)によれば、この頃、当寺の造営が企てられ、鎌倉府も協力を約している。文和元年(一三五二)一〇月一日には足利尊氏から丸嶋郷が寄進されている(「将軍足利尊氏御教書写」同書)。尊氏は同二年五月四日に「天下安全」を(「将軍足利尊氏御教書写」同書)、同年六月二三日には「凶徒退治」を(「将軍足利尊氏御教書」同書)、また足利基氏も貞治三年(一三六四)四月二六日に「天下安全」を祈念せよと当寺衆徒に命じており(「関東公方足利基氏御教書写」同書)、足利氏一門の信仰が厚かった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
神奈川県伊勢原(いせはら)市大山(おおやま)にある寺。真言(しんごん)宗大覚寺(だいかくじ)派の準大本山。山号は雨降山(うこうざん)。本尊は不動明王および二童子像。かつては「おおやまでら」といい、通称「大山(おおやま)の不動さん」として親しまれてきた。755年(天平勝宝7)奈良東大寺の別当良弁(ろうべん)僧正の開山と伝える。聖武(しょうむ)天皇の勅願寺で、鎮護国家の道場として栄えた。良弁が建立した不動堂は、879年(元慶3)の地震による大火で本尊とともに焼失した。その後、文永(ぶんえい)年間(1264~75)鎌倉の真言僧願行上人(がんぎょうしょうにん)が再興。上人は鉄鋳の不動明王を造像。これは「試し不動」と称され、現在鎌倉の覚園(かくおん)寺にある。ついで鉄鋳不動明王の大像・制多迦(せいたか)・衿迦羅(くりから)童子像(国重要文化財)をつくり山上に安置した。代々、鎌倉・室町幕府、後北条(ごほうじょう)氏に保護され、兵力を繰り出してきたが、1605年(慶長10)徳川家康は武力を心がける不学不律の僧を下山させて清僧の地とした。高野山(こうやさん)の実雄法印を学頭として改革し多大の保護を加え、大山不動参りが江戸大衆のなかにも広まった。神仏習合のころは修験(しゅげん)の道場として栄えたが、明治の神仏分離によりその地位を阿夫利(あふり)神社に譲り、現在の地に移った。
[野村全宏]
『宇都宮泰長・鈴木隆良著『大山不動と日向薬師』(1981・鵬和出版)』
鳥取県西伯(さいはく)郡大山町大山にある寺。天台宗の別格本山。角磐(かくばん)山と号する。本尊は地蔵菩薩(じぞうぼさつ)。養老(ようろう)年間(717~724)に金蓮上人(こんれんしょうにん)が開基したと伝え、地蔵菩薩を祀(まつ)り、767年(神護景雲1)称徳(しょうとく)天皇より大智明大権現(だいごんげん)の宝号を賜った。古来修験(しゅげん)の道場であったが、866年(貞観8)慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)が留錫(りゅうしゃく)し阿弥陀(あみだ)仏を安置、大山寺と名づけ天台宗に列したという。平安時代には3000人余の僧兵を擁し、強大な勢力をもち、1333年(元弘3・正慶2)大山別当源盛(げんせい)は後醍醐(ごだいご)天皇を擁し、大山寺の僧を率いて船上山(せんじょうさん)で戦った。戦国時代には、尼子(あまご)氏、毛利(もうり)氏などの崇敬厚く、堂宇の再建、領地の寄進を受けた。
江戸時代、中興の祖豪円(ごうえん)の上申によって徳川家康より3000石の朱印状を受け、寺威盛んとなったが、維新時の神仏分離によって大神山(おおがみやま)神社奥宮(おくのみや)となり廃寺の憂き目にあった。1903年(明治36)復号を許された。阿弥陀堂、木造阿弥陀三尊像、銅造観世音(かんぜおん)菩薩立像3体、銅造十一面観音(かんのん)立像は、いずれも国の重要文化財に指定されている。
[中山清田]
鳥取県西伯郡大山町にある天台宗の寺。山号は角磐山。寺伝によれば,出雲国玉造の俊方という猟師が地蔵菩薩の霊験によって発心し,金蓮上人となって開基したという。古代から神聖な山と仰がれた大山は,平安時代に入ると修験道の行場として知られるようになった。やがて,地蔵菩薩を本地とする大智明権現を核に,釈迦,阿弥陀,大日の信仰をそれぞれ中心とする南光院,西明院,中門院と付属の堂舎僧坊群が形成され,延暦寺の末寺に組み入れられていった。その時期は不明だが,《中右記》によると,1094年(嘉保1)300人余の大衆が上洛して天台座主を訴えているから,少なくとも11世紀には,山陰道屈指の天台寺院に成長していたことがわかる。中世には,基好(きこう)のような学匠も出たが,一方では強力な僧兵集団も擁していた。近世には寺領3000石。寺内は一種の自治をしき,〈1山3院42坊〉と称される大勢力を維持した。神仏分離によって1875年寺号を廃されたが,1903年大日堂を中心に,大山寺が復活した。西明院に属する阿弥陀堂と阿弥陀如来座像は,ともに重要文化財に指定されている。
執筆者:藤岡 大拙
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鳥取県大山町にある天台宗の寺。役小角(えんのおづの)の創建とも,出雲国の金蓮(こんれん)上人の開山ともいう。平安初期に慈覚大師円仁が入寺したと伝えられ,平安時代に南光院・西明院・中門院の3院からなる天台宗寺院として確立。多くの僧をかかえ,ときには上洛強訴するなど強大な勢力をもった。地蔵菩薩を本地とする智明権現を祭る修験の山としても知られた。1875年(明治8)の神仏分離で廃されたが,のち復興。銅造観世音菩薩像や鉄製厨子(いずれも重文)などがある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
… 大山の標高は富士山の半分にもみたないが,日本海に近く,直接北西季節風の影響を受けるため,気候の垂直的変化が大きく,生物相も多彩である。山麓一帯は栗,ナラなどの落葉樹や松,杉の針葉樹林で,標高660mの大山寺付近からブナ,ミズナラなどの落葉広葉樹林帯となる。ブナは大山を代表する樹木で,初夏は緑,秋はあざやかな黄色で山を彩る。…
…国内の式内社は,国名のもとになったとされる天神川下流域の波々伯(ははき)神社を含め6座(いずれも小社)を数えるにすぎないが,大山(だいせん)や三徳(みとく)山など古来著名な修験霊場が多くの崇敬を集めていた。これらの山には平安期に大山寺,三仏寺などの山岳寺院が建立され,密教系寺院の一大勢力地域を形成した。中でも大山寺は平安末期の最盛期には300名に上る僧兵を擁したといわれ,山陰地域一帯に勢力を誇った。…
※「大山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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