山陰道(読み)さんいんどう

精選版 日本国語大辞典 「山陰道」の意味・読み・例文・類語

さんいん‐どう ‥ダウ【山陰道】

[一] 五畿七道の一つ。中国山地の北側、日本海に面する丹波(京都府、兵庫県)、丹後(京都府)、但馬(兵庫県)、因幡(鳥取県)、伯耆(鳥取県)、出雲(島根県)、石見(島根県)および日本海にある隠岐(島根県)の八か国。さんおんどう。せんおんどう。せんいんどう。そとものみち。山陰。
[二] (一)を貫く駅路。

せんおん‐どう ‥ダウ【山陰道】

五畿七道の一つ。山陰。さんいんどう。せんいんどう。
※太平記(14C後)一四「四国の御敵も近付きぬ、山陰(センヲン)道の朝敵も、只今大江山へ取りあがるなんど、聞へしかば」

せんいん‐どう ‥ダウ【山陰道】

日葡辞書(1603‐04)「Xenindǒ(センインダゥ)

さんおん‐どう ‥ダウ【山陰道】

(「おん」は「陰」の呉音。連声(れんじょう)で「さんのんどう」とも) =さんいんどう(山陰道)

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デジタル大辞泉 「山陰道」の意味・読み・例文・類語

さんいん‐どう〔‐ダウ〕【山陰道】

五畿七道の一。現在の近畿・中国地方の日本海側。丹後丹波但馬たじま因幡いなば伯耆ほうき出雲いずも石見いわみ隠岐おきの8か国。また、この国々を結ぶ街道のこと。

そとも‐の‐みち【山陰道】

山陰道さんいんどうの古称。

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日本歴史地名大系 「山陰道」の解説

山陰道
さんいんどう

古代から近代の日本海沿いを走る道の呼称。古代においては丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の八ヵ国を陸路と水路で結ぶ官道。近世以降の山陰道は出雲では東へ向かって伯州街道、西へ向かって石州街道、石見では東へ向かって雲州街道、西へ向かって長州街道などとよばれる場合があった。

〔古代・中世〕

「令義解」厩牧令によると、古代の官道には大路・中路・小路の格付があり、山陰道は小路であった。官道には原則として三〇里ごとに駅を設置し、小路の駅には駅馬五疋を配置することを定めている。官道の利用については詳細な規定があり、京へ送る至急の公文書は一日一〇駅以上、普通の公文書は一日八駅以上の速さとされ、公務旅行の際の一日の行程は、馬七〇里、歩五〇里、車三〇里と定められている(「令義解」公式令)。一方、京からの距離によって出雲は中国、石見・隠岐は遠国と定められており(「延喜式」民部省)、三国とも租は国内での公費支出に充てられ京への輸送は免除されているが、調・庸・中男作物の輸送は義務づけられており、そのための官吏人夫の上京帰国は出雲が上り一五日・下り八日、石見は上り二九日・下り一五日、隠岐は上り三五日・下り一八日と定められている(同書主計寮)

「出雲国風土記」と「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条によると、出雲国には野城のき黒田くろだ・完道(宍道)狭結さよう多伎たき(「延喜式」では多仗)千酌ちくみの六駅が設けられ、駅馬各五疋、石見国には波禰はね託農たくの樟道くすち・江東・江西・伊甘いかんの六駅が設けられ、駅馬各五疋とあるが、隠岐国の記載はない。出雲国六駅については「出雲国風土記」の記述にも助けられ、おおよその所在地の比定をすることができる。意宇おう郡野城駅は現安来市西松井にしまつい町に、同郡黒田駅は出雲国庁と同所の現松江市大草おおくさ町に、同郡宍道駅は現宍道町佐々布ささふに、神門かんど郡狭結駅は現出雲市古志こし町に、同郡多伎駅は現多伎町多岐たきにあったと考えられる。島根郡千酌駅は出雲国庁付近で山陰道の本道から分れる風土記所載の枉北きたにまがれる道の一つの終点で、隠岐への航路の出発点にあたり、現美保関みほのせき町千酌に比定される。しかし各駅とも遺構は未発見で、駅間のルートについても不明の部分が多い。風土記には伯耆から出雲に入る国境に手間てまがあると記されるが、所在地については現伯太はくた安田宮内やすだみやうちと現鳥取県西伯さいはく猪小路いのこうじ、現伯太町安田関やすだぜきと現西伯町福成の柏尾ふくなりのかしお、現伯太町安田関と現鳥取県米子市新山にいやまの各県境付近などいくつかの説がある。

山陰道
さんいんどう

律令制下に都を中心として放射状に設定された官道の一つ。のちにも畿内と山陰地方を結ぶ幹線道として機能した。

〔古代・中世〕

大和、のちには山城から丹波・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見の諸国を結び、丹後への支路も接続していた。「日本書紀」崇神天皇一〇年九月九日条のいわゆる四道将軍の派遣記事には、丹波道主命を丹波に遣わしたことがみえ、大和王権の山陰地方への進出をうかがわせるが、この丹波は丹後地方をさすとも考えられる。同書天武天皇一四年(六八五)九月一五日条の巡察使派遣の記事には、巨勢朝臣粟持を山陰使者としたことが記されており、山陰には「そとものみち」の古訓が残されている。この頃には山陰道が地域区分としてまとまり、交通路としても整ってきたと思われる。大宝律令施行直後の大宝三年(七〇三)一月の巡察使派遣時には、波多真人余射が山陰道の使いに任命された(「続日本紀」同年正月二日条)。山陰道の初見である。

令制では大・中・小路のうち、駅ごとに駅馬五匹を置く小路に位置づけられているが(厩牧令義解)、「延喜式」兵部省によれば山陰道の兵庫県内の駅には、丹波国小野おの長柄ながら星角ほしずみ佐治さじの各駅に馬八匹、日出ひで・花浪の各駅に五匹、但馬国粟鹿あわが郡部ぐべ養耆やぎ面治めじ射添いそうの各駅に八匹、同国山前やまさき春野はるのの各駅に五匹が置かれた。令制よりも駅馬が多いのは、実際の交通量に応じて加増されたためと考えられる。このうち春野駅は駅馬が五匹と少なく、山陰道から分岐して但馬、さらに丹後へと向かう支道の駅とされている。山前駅も同様に支道の駅とする説があるが、「延喜式」の記載順が養耆と面治の両駅の間にあるため本道の駅とする説もある。なお「和名抄」高山寺本は日出を白出、春野を春部と記す。このほか天平宝字元年(七五七)に但馬国に高田たかた駅が存在しており(天平勝宝九歳八月二〇日「解文断簡」正倉院蔵鳥兜下貼文書)、大同三年(八〇八)五月二日には「但馬国三駅」が不要として廃止された(日本後紀)。この記事は三ヵ所の駅の廃止とする解釈が通説であるが、「三」という名称の駅一ヵ所と解する余地がある。また「延喜式」主税寮によると、山陰道諸国のうち丹波国に駅家修理料として毎年稲二万束が計上されている。

古代山陰道のルートは、諸駅の比定地や直線古道の痕跡からおよそ以下のように考えられている。丹波国府のあった京都府の亀岡かめおか盆地から西へ向かい、天引あまびき峠を越えて多紀たき郡の現篠山市に入る。

山陰道
さんいんどう

延暦一三年(七九四)の平安遷都以前は、大和から南山城・丹波を経て、平安遷都以後は京都から丹波を経て山陰方面に向かう街道をいう。七道のうちの山陰道を支配下に入れるための重要な道であった。以下前者を古山陰道、後者を山陰道として述べる。

古山陰道のルートは、大和から奈良山の低い丘陵を越える歌姫うたひめ越を経て(あるいは平城京東三坊大路を北上した道やまた奈良坂を越える道を使うこともあったかもしれない)山城国に至り、そこから北西行して木津きづ川左岸に沿い、吐師はぜ(現相楽郡木津町)祝園ほうその下狛しもこま(相楽郡精華町)山本やまもと田辺たなべ大住おおすみ(現綴喜郡田辺町)を通り、木津川・宇治川・かつら川の三川合流点下流付近で渡河するが、この間については松井まつい(田辺町)、八幡(現八幡市)と山麓部に沿うのでなく木津川旧流路(現在の生津―八幡の流路は明治以降のもの)の左岸に沿って直線的に北西行するという説もある。この説によれば木津川左岸を北西行して淀川を渡河することになるが、この地点以降は延暦三年に造営された長岡京域に含まれて道路は消滅することになる。たしかにこの間は該当する古道が存在せず、これに対して京域の終わる上里かみざと(現京都市西京区)からは古道が残存しており、この残存古道は木津川左岸ルートと直線でつながるというきわめて興味深い結果となる。もっとも、いずれの説をとるにせよ渡河以後は乙訓おとくに郡内を縦断して沓掛くつかけ(現京都市西京区)からおいさかの谷道を通って亀山(現亀岡市)へ向かうが、沓掛以遠は平安遷都以後の山陰道と一致する。

南山城地域を通る主要な街道は、この古山陰道のほかに木津川右岸に沿うものがあった。これを「山背道やましろぢ(万葉集)とよんだのに対し、古山陰道は「丹波道」とよばれたらしい。「万葉集」巻一二に、

<資料は省略されています>

とある。ただし「大江の山の」とあるように大江おおえ(大枝山、現京都市西京区)の近辺のみをこう称した可能性もあり、「雍州府志」には「丹波道 自下山田村、赴丹波之坂路而、古来往還之道也、(中略)近世老坂為順路」と記し、丹波道を塚原つかはら(現京都市西京区)―沓掛の道より北の山中を通る唐櫃からと越と混同しているし、「山城志」は「丹波路 旧名大枝道」として、いずれも老ノ坂とその近辺だけを丹波道と称したかのように理解している。

山陰道
さんいんどう

丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の八ヵ国の国府を連ねる古代の官道。この交通路は「令義解」厩牧令によれば駅馬五疋を置く小路。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条によれば三七駅が設けられ、駅馬はおおむね都に近い因幡以東の諸駅に八疋、伯耆以西の諸駅に五疋が配置されていた。交通量による差異であろう。因幡国内には山埼やまさき佐尉さい敷見しくみ柏尾かしわおの四駅が設けられ駅馬各八疋、巨濃この高草たかくさ気多けたの三郡に伝馬各五疋が置かれていた。伯耆国内では笏賀くつか松原まつばら清水しみず和奈わな相見あいみの五駅が設けられ駅馬各五疋、河村かわむら久米くめ汗入あせり会見あいみ八橋やばせの五郡に伝馬各五疋が置かれていた。因幡国ではこれより先、「続日本紀」の養老七年(七二三)八月一九日条に「加置因幡国駅四処」とある。駅名は記されていないが、駅四処は山埼・佐尉・敷見・柏尾のことと推定されている。

因幡・伯耆の駅のなかで、伯耆の清水・和奈の二駅は現存する地名から各々東伯とうはく町八橋の清水、名和なわ町とその位置が推定でき、因幡の柏尾駅は古社の青谷あおや町青谷の相屋あいや神社の所在からおよその位置の見当がつく。その他の駅位置も地名や郡家跡と推定される遺跡などによって、因幡国の山埼駅は岩美いわみ岩井いわい長谷ながたに付近、佐尉駅は福部ふくべ細川ほそがわ付近、敷見駅は鳥取市の湖山こやま池南方、伯耆国の笏賀駅はとまり石脇いしわき付近、松原駅は倉吉市巌城いわき付近、相見駅は岸本きしもと坂中さかなか付近が想定できる。

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国指定史跡ガイド 「山陰道」の解説

さんいんどう【山陰道】


鳥取県岩美郡岩美町と島根県鹿足(かのあし)郡津和野町にある峠道。指定名称は「山陰道 蒲生峠越(がもうとうげごえ) 徳城峠越(とくじょうとうげごえ) 野坂峠越(のさかとうげごえ)」。「山陰道」とは古代の行政区分の名称で、この行政区分中の国々をつなぐ官道のことを山陰道と呼ぶようになった。京を出発し、丹波、丹後、但馬(たじま)、因幡(いなば)、出雲(いずも)、伯耆(ほうき)、石見(いわみ)を貫く道であった。近世において、鳥取藩は山陰道を京へ通じる主要街道として整備し、鳥取を起点に一里塚を築き、宿駅を置いた。山陰道は岩美町浦富で海沿いに進むルートと蒲生峠へ向かうルートに分岐するが、蒲生峠越が本道とされていた。山陰道蒲生峠越は、岩美町塩谷で国道9号線から分かれて山道に入り、蒲生峠で県道千谷蕪島(ちだにかぶしま)線に合流する。現在でも峠付近には延命地蔵像の台座が残り、当時の往来の様子を今に伝えている。1892年(明治25)に現在の県道ルートに変更されたが、地域住民がこの道を利用し、石畳や水路などの遺存状態は比較的良好である。1998(平成10)~2000年(平成12)年にかけて岩美町教育委員会によって、石畳や道の修復などがなされた。2005年(平成17)に、山陰道のうち、境界の確定できた約2kmの古道と峠の守り仏の延命地蔵の敷地が、「山陰道 蒲生峠越」として国史跡に指定された。蒲生峠入口へは、JR山陰本線岩美駅から車で約20分。また、山陰道徳城峠越と野坂峠越はいずれも島根県津和野町にあり、徳城峠越は津和野城下から浜田藩に行く途中までの延長約3kmが、野坂峠越は長州藩領から城下の入り口までの延長約1.4kmが、2009年(平成21)に追加指定された。中世の山陰道は現在の島根県益田市から津和野城下を経て野坂峠にいたるルートになり、近世には天領を避けるために徳城峠などの険しい難所を越えるルートになったと考えられている。徳城峠越は幅約3~4mの路面のほとんどを切り土で造成し、側溝が設けられている。野坂峠越は石見から山口に向かう主要な峠であり、旅人や通過する物資を見張った番所跡や石垣、石敷きなどが残っている。津和野藩が整備したこの道は長州藩との境にあり、幕末維新には長州の志士たちが往来に使ったといわれ、旧状がよく残っている。徳城峠越へは、国道9号小瀬洞門から徒歩約50分。野坂峠越へは、国道9号野坂峠から徒歩約20分。

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百科事典マイペディア 「山陰道」の意味・わかりやすい解説

山陰道【さんいんどう】

五畿七道の一つ。畿内から西へ日本海沿岸諸国を連絡した道。また沿道の諸国。《延喜式》では丹波(たんば)・丹後(たんご)・但馬(たじま)・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)・出雲(いずも)・石見(いわみ)・隠岐(おき)の8ヵ国。
→関連項目青谷[町]出雲国因幡国石見国駅・駅家大枝山関(大江山関)隠岐国但馬国丹後国丹波国伯耆国

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改訂新版 世界大百科事典 「山陰道」の意味・わかりやすい解説

山陰道 (さんいんどう)

古代の地方行政区画の七道(五畿七道)の一つ。《西宮記》では〈ソトモノミチ〉〈カケトモノミチ〉と読んでいるが,後者は山陽道の読みの錯入と考えられる。丹波山地および中国山地の北斜面を占める。山陰道の成立時期は不明であるが,685年(天武14)山陰使者として巨勢粟持派遣のことが知られるので,その成立は天武朝末年のころとみられる。《延喜式》ではこの道所属の国として丹波,丹後,但馬,因幡,伯耆,出雲,石見,隠岐の8国を数えるが,このうち丹後は713年(和銅6)丹波より分立したものである。また出雲は古くは山陽道の吉備と同様に,大和朝廷に対し一大勢力圏を形成していた。山陰道は所属国の大部分が日本海に面していることもあって,古くから朝鮮半島との交流が活発であったが,同時に半島との外交関係の変遷とあいまって,律令国家にとって,軍事上でも重要な位置を占める地域であった。駅制の官道としての山陰道は各駅に5匹の駅馬をおく小路であった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山陰道」の意味・わかりやすい解説

山陰道
さんいんどう

古代、律令(りつりょう)期における国の上部の地域単位である五畿(ごき)七道の一つ、およびそこに設定された官道の名称。『日本書紀』崇神(すじん)天皇条に、四道将軍の一人丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)を派遣したとする記事が初見。現在の近畿地方と中国地方の北部一帯にあたり、713年(和銅6)に丹後(たんご)国が設置されて、丹波、丹後、但馬(たじま)、因幡(いなば)(以上は『延喜式(えんぎしき)』では近国)、伯耆(ほうき)、出雲(いずも)(以上中国)、石見(いわみ)、隠岐(おき)(以上遠国(おんごく))の8か国が確定した。官道は小路であり、『延喜式』では合計37駅が所在したことが記されている。山陰道諸国では因幡国だけが、『延喜式』に海路の運漕功賃を記しており、敦賀(つるが)津を経て京へと物資が輸送されたとみられる。現在の山陰地方の2県は因幡以遠の5か国の範囲にあたる。

[金田章裕]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山陰道」の解説

山陰道
さんいんどう

(1)古代の七道の一つ。現在の近畿地方から中国地方の日本海側にそった地域で,丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の各国が所属する行政区分。(2)これらの諸国を結ぶ交通路も山陰道と称し,「背面(そとも)の道」ともよばれた。畿内から各国府を順に結ぶ陸路を基本に官道が整備され,出雲から隠岐へは海路で結ばれた。駅路としては小路で,各駅に5頭の駅馬がおかれる原則であり,「延喜式」では総計37駅に230頭の駅馬をおく規定であった。地方官として731年(天平3)に山陰道鎮撫使(ちんぶし),732~734年に山陰道節度使,746年に北陸・山陰両道鎮撫使を設置した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山陰道」の意味・わかりやすい解説

山陰道
さんいんどう

律令制における五畿七道の地方区分の一つ。丹波,丹後,但馬 (たじま) ,因幡 (いなば) ,伯耆 (ほうき) ,出雲,石見と隠岐の8ヵ国を総称する地方名。また,本州西部,ほぼ日本海の海岸沿いに通じていた街道。上古には丹波路ともいわれた。京都で北陸道とつながり,丹波山地を通り日本海へ出て,鳥取,松江,出雲大社,萩と海岸沿いに下関にいたる。出雲大社の参拝,江戸時代には参勤交代のための主要道路。現在はその大部分が国道9号線になっている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「山陰道」の解説

山陰道
さんいんどう

律令制における五畿七道の一つ
現在の中国地方日本海沿岸地域をいう。丹波・丹後・但馬 (たじま) ・因幡 (いなば) ・伯耆 (ほうき) ・出雲 (いずも) ・石見 (いわみ) ・隠岐 (おき) の8カ国。

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世界大百科事典(旧版)内の山陰道の言及

【駅伝制】より

…中央から辺境にのびる道路にそい,適当な間隔で人・馬・車などを常備した施設すなわち駅を置き,駅を伝わって往来する交通・通信の制度。世界史上,前近代に広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると,外敵の侵入や国内の反乱に直ちに対処するばあいを含め,支配維持のために中央と地方とを常時連絡する手段が必要となり,さまざまな形態の駅伝が制度として定められるのが一般であった。このように駅伝制はもともと前近代における支配手段の一種であったから,国家の管理下に置かれて民間の自由な利用は許さないのが原則であり,また国家権力の解体とともに衰退していった。…

【街道】より


[古代・中世]
 古くは地域ごとにおもに情報の伝達,兵員およびその食料の輸送,貢納物の移送といった軍事的・政治的な目的で政治権力によって形成されたとみられ,それらは律令国家の形成にともなって都城や国府を中心として統一的に体系化された。古代律令制においては,都城と諸国府を結ぶ街道として東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道が整備され,このうち都城と大宰府を結ぶ山陽道が最も重視されて大路(たいろ)と規定され,東海道・東山道が中路,他は小路とされた。これらの街道には駅伝制がしかれた。…

【丹波国】より

…ほとんどが丹波高地とよばれる山地から成り,平地は亀岡盆地,福知山盆地などごく少ない。
【古代】
 山陰道に属する上国(《延喜式》)。国名は,《古事記》では旦波,丹波が併用されており,《日本書紀》ではすべて丹波である。…

※「山陰道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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