日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐藤勝」の意味・わかりやすい解説
佐藤勝
さとうまさる
(1928―1999)
映画音楽作曲家、指揮者。北海道生まれ。300以上の担当作品を通じて第二次世界大戦後の日本映画の黄金期を支えたばかりか、海外の映画音楽界にも大きな影響を及ぼした。近所に映画館があったことから映画漬けの幼少期をおくるが、『オーケストラの少女』(1937)に衝撃を受け、音楽の道を目ざす。第二次世界大戦中に上京し、国立音楽学校(現・国立音楽大学)に入学。1951年(昭和26)に卒業する直前、早坂文雄が音楽を手がけた『羅生門』(1950)に感銘を受け、入門を申し出る。音楽講師やバンドマンなどで生計を立てる一方、文字どおり早坂の鞄(かばん)もちをしながら師事。この時期、武満徹(たけみつとおる)が佐藤とともに早坂のアシスタントを務めていたのは有名。後年、佐藤はノンクレジットで武満の映画音楽録音を数多く指揮している。1952年、早坂のはからいで長編映画第一作『三太と千代ノ山』を作曲。その後も『七人の侍』(1954)などで早坂のアシスタントを続け、1955年にはゴジラ・シリーズ第二作『ゴジラの逆襲』の音楽担当に抜擢(ばってき)される。同年、『生きものの記録』にとりかかったばかりの早坂が死去したため、同作の音楽を補作。これが黒澤明監督との事実上のコンビ第一作となり、『どん底』(1957)以降計8本の長編といくつかのCM作品で黒澤と濃密なコラボレーションを展開した。重厚なオーケストラで能楽の音楽的翻案を試みた『蜘蛛巣(くものす)城』(1957)、ハリウッド活劇音楽のダイナミズムを日本的な文脈に移植した『隠し砦(とりで)の三悪人』(1958)、低音の管楽器を印象深く響かせて邪悪さを表現した『悪い奴ほどよく眠る』(1960)、ミキシング・テクニックとユニークな楽器法でバイタリティーあふれるサウンドを生みだした『用心棒』(1961)、キューバの打楽器キハーダの使用によって時代劇音楽の流れを変えた『椿三十郎』(1962)、退廃的なジャズ・サウンドと無調音楽風のソプラノを融合した『天国と地獄』(1963)、ハイドンとベートーベンを下敷きにした佐藤流“歓喜の歌”『赤ひげ』(1965)など、いずれも師、早坂ゆずりの弛(たゆ)まぬ研究心と粘り強いバイタリティー、それに音色に対する鋭い感覚があってはじめて可能となった劇音楽表現である。しかし音楽設計に対する見解の相違から佐藤は『影武者』(1980)の作曲を辞退、これをもって黒澤との協力関係は終焉(しゅうえん)を迎えた。黒澤以後、とりわけ重要なコラボレーションをみせたのは五社英雄(ごしゃひでお)(1929―1992)監督。1966年の『五匹の紳士』から五社の遺作となった『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』(1992)までを手がけたが、邦楽器の斬新な使用から主題歌の巧みなアレンジまで、佐藤が独自に編みだした方法論のほぼすべてが五社とのコンビ作のなかに盛りこまれている。
1年で18本の作品を仕上げた時期もあった佐藤は最終的に100人近い監督と共同作業を行っており、『独立愚連隊』(1959)、『吶喊(とっかん)』(1975)の岡本喜八や、『戦争と人間』三部作(1970~1973)、『皇帝のいない八月』(1978)の山本薩夫(さつお)など、枚挙にいとまがない。そのほか、ドキュメンタリー『札幌オリンピック』(1972)、コメディ作品『ルパン三世/念力珍作戦』(1974)からアニメーション作品『地球(テラ)へ…』(1980)まで、ありとあらゆるジャンルをオールラウンドにこなすプロフェッショナリズムは、そのまま日本映画黄金期の技術力の高さを体現したものといえよう。
1982年、眼底出血を患うが、3か月の入院を経て復帰。以後、担当本数を絞りながらも年2、3本は手がけ、1993年(平成5)には記念すべき300本目の映画音楽『わが愛の譜/滝廉太郎物語』を発表、芸術選奨文部大臣賞および紫綬褒章(しじゅほうしょう)が授与された。1999年、黒澤監督の遺稿を映画化した『雨あがる』の音楽を作曲、同年11月3日に行われた同作の完成披露パーティーで倒れ、そのまま永眠した。最終的に307本にのぼる佐藤の膨大な作品群から165本の映画音楽を自選したCD『映画音楽 佐藤勝作品集』全16枚が1992年発売された。数度にわたり自作を中心とした演奏会を指揮したほか、早坂作品の再録音も行っている。故郷留萌(るもい)市の委嘱による「北の序曲」などを除いて演奏会用音楽をほとんど手がけず、生涯にわたって自ら「管弦楽の大衆化運動」とよんだ創作姿勢を貫いた。
[前島秀国]
『佐藤勝著『300/40――その画・音・人』(1994・キネマ旬報社)』