佐賀の乱(読み)サガノラン

デジタル大辞泉 「佐賀の乱」の意味・読み・例文・類語

さが‐の‐らん【佐賀の乱】

明治7年(1874)江藤新平島義勇らが、明治政府の開化政策に反対する佐賀の不平士族とともに兵を挙げた事件。敗れた江藤・島はさらし首に処せられた。

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共同通信ニュース用語解説 「佐賀の乱」の解説

佐賀の乱

1874(明治7)年2月に佐賀で勃発した、不平士族と明治政府との争い西郷隆盛の朝鮮派遣を巡る政府内の分裂「明治六年の政変」で下野した江藤新平らを担いだが、大久保利通を全権とする鎮圧軍に苦戦した。江藤は再起を図るべく佐賀を脱出鹿児島西郷救援を求めたが断られ、東京を目指す途中の高知で逮捕された。4月13日、佐賀で斬首死刑判決を受け、処刑された。

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精選版 日本国語大辞典 「佐賀の乱」の意味・読み・例文・類語

さが【佐賀】 の 乱(らん)

  1. 明治七年(一八七四)二月、前参議江藤新平、前秋田権令島義勇らが征韓論反対の明治政府に対して佐賀で起こした不平士族の反乱。まもなく政府軍に敗れ、江藤・島はさらし首の極刑に処された。

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改訂新版 世界大百科事典 「佐賀の乱」の意味・わかりやすい解説

佐賀の乱 (さがのらん)

1874年(明治7),前年の〈征韓論分裂〉で下野した参議江藤新平が,佐賀で起こした士族反乱。明治6年10月の政変(征韓論分裂)で,参議西郷隆盛らと下野し,また板垣退助らと民撰議院設立の建白書に名を連ねた江藤は,郷里の佐賀に帰った。佐賀の征韓党はこの江藤を首領とし,これまで拮抗していた憂国党(1873年,秋田県令をやめた島義勇を首領)と対政府行動を共にするに至った。74年2月1日,3000余人(のち1万1000余に達する)は小野商会を襲って行動を起こした。佐賀の権令は任命されたばかりの岩村高俊だったが,参議大久保利通が全権をうけて出張し,熊本・大阪2鎮台兵が海陸から出兵した。16日,征韓・憂国軍は県庁を包囲,18日,権令岩村は筑後に逃れた。江藤は九州一帯の士族の呼応を期待したが,これは誤算におわった。一方,大久保は19日,福岡に本営をおき,22日から追討の軍を進めた。23日,東伏見宮嘉彰親王(のちの小松宮)が征討総督に任じられ,陸軍中将山県有朋らが参軍となり,近衛連隊の一部を率いて西下した。江藤は佐賀を脱し,鹿児島で西郷隆盛に拠ろうとしたが果たさず,3月3日,日向飫肥(おび)から四国へ渡り,高知の林有造や片岡健吉に会見した。しかし彼らも応ぜず,29日,土佐と阿波の国境甲ノ浦で逮捕された。島もすでに3月7日,鹿児島で県吏に捕縛されていた。征討総督の指揮をうけた大久保は4月5日,佐賀に臨時裁判所を設け,権大判事河野敏鎌裁判長によって,江藤・島を梟首(きようしゆ)の刑に処した。斬11名,懲役136名,除族240名,禁錮7名で,1万0713名は罪を免じられた。政府軍は総勢5300名,死傷者は350名だったといわれる。江藤らが改定律例(1873年6月頒布)によることなく梟首に処せられたところに,この佐賀の乱に対する明治政府(とくに大久保)の政治的処断が示されている。かつては政府の中枢にあった参議の士族反乱への荷担に対する極刑によって,政府の権威と断固たる処置を誇示し,他の士族反乱への動きを抑えようとしたのである。佐賀の乱への政府の対応の敏速さもその一環であった。
士族反乱
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐賀の乱」の意味・わかりやすい解説

佐賀の乱
さがのらん

1874年(明治7)2月佐賀県の征韓・憂国両党に結集する士族1万1000余人が明治政府に反対して蜂起(ほうき)、鎮定された事件。士族反乱の一つ。73年8~10月の征韓論争の破裂後、佐賀県内には民権派など進歩派士族をも含めた征韓党と保守派士族を糾合した憂国党が結成された。翌74年1月征韓党は征韓論争後下野し、「民撰(みんせん)議院設立建白書」に署名して帰国した前参議江藤新平(しんぺい)を迎えて党首とし、また憂国党は、維新後北海道開拓使判官、侍従、秋田県令などを経て東京にとどまっていた島義勇(よしたけ)を迎えて2月14日党首とし、ここに両党は2月佐賀で反乱を起こした。政府は2月4日、鎮圧のため出兵を命令。13日、江藤らは「決戦の議」を発し、18日佐賀県庁を占拠した。しかし、政府が佐賀県下士族の動揺をいち早く察知し兵を進めたため、反乱軍は高知、熊本、中津(大分県)などからの予定した援軍を得られず、2週間の戦闘ののち鎮定された。4月江藤(高知県で捕縛)、島(鹿児島県で捕縛)2人は晒首(さらしくび)の刑を受け、ほかに400人余が処罰された。江藤らは国権が全うされて初めて民権が実現されるのであり、その国権を損なっているのは岩倉具視(ともみ)、大久保利通(としみち)など一部高級官僚であるとして、高級官僚の専制体制の打破を挙兵の目的としていたが、政府への批判を募らせる一般民衆との結合はまったく考えなかった。

[猪飼隆明]

『黒龍会編『西南記伝 上巻2』(1908・黒龍会/復刻版・1969・原書房)』『後藤靖著『士族反乱の研究』(1967・青木書店)』『杉谷昭著『江藤新平』(1962・吉川弘文館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐賀の乱」の意味・わかりやすい解説

佐賀の乱
さがのらん

1874年2月に佐賀県下の士族が中心となって起した反政府反乱。当時の佐賀県には,強硬に征韓論を唱える征韓党や,中央政府の推し進める強権的資本主義化に反対し,旧武士層の利害を代表して封建復活を唱える憂国党などがあり,政治的には反明治新政府の牙城であった。 74年1月,大久保利通岩倉具視らとの征韓論をめぐる政治的抗争に敗れた江藤新平が,下野して征韓党首領となるや,佐賀県の不平士族は反乱へと積極的に動きはじめ,征韓党は島義勇を首領とする憂国党と合体,旧弘道館に本部を設置し,「征韓先鋒請願事務所」を名のった。征韓党と憂国党が同年2月1日,政商小野組を襲撃して兵をあげる準備をするなど不穏な動きをみせたことを契機に,政府は反乱鎮圧に乗出し,参議大久保利通を全権とする鎮圧軍を組織してこれを佐賀へと向わせた。反乱軍は,およそ 3000名を数え,一時,佐賀県庁 (旧佐賀城) を占拠するなど抗戦を続けたが,最新兵器で武装した政府軍の前に歯が立たず,2月いっぱいで鎮圧された。江藤と島は逃走したが,2月 29日に江藤が四国で,3月7日には島が鹿児島でそれぞれ捕えられ,裁判の末4月 13日,ともにさらし首の刑に処せられた。また刑は,ほかに斬罪 11名,懲役 130名という強硬なものであり,内乱鎮圧に対する新政府の強い態度を示すものであった。

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百科事典マイペディア 「佐賀の乱」の意味・わかりやすい解説

佐賀の乱【さがのらん】

1874年征韓論争に敗れて下野した前参議江藤新平が中心になり,島義勇(しまよしたけ)の率いる憂国党と結んで佐賀で蜂起(ほうき)した反政府士族反乱。征韓・旧制度復古・攘夷をスローガンとしたが予期した西郷隆盛らの応援もなく,全権を受けた大久保利通の指揮下の追討政府軍に鎮圧された。島は鹿児島で,江藤は高知県甲ノ浦(かんのうら)で逮捕され,ともに梟首(きょうしゅ)となった。
→関連項目児玉源太郎士族反乱谷干城山県有朋

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「佐賀の乱」の解説

佐賀の乱
さがのらん

1874年(明治7)2月に佐賀県でおきた士族の反乱。73年10月の政府分裂後,佐賀県では不平士族が征韓党や憂国党を結成し,不穏な情勢にあった。政府の武力介入が計画されるなか,参議を辞し帰郷して征韓党の首領に仰がれた江藤新平は,憂国党の首領に推された元秋田県権令の島義勇(よしたけ)と手を結び,2月15日両党は蜂起して県庁を襲撃した。反乱軍は約1万2000人で,緒戦では優位に立ったが,期待した他県の不平士族の呼応はなく,参議大久保利通(としみち)指揮下の鎮台兵によって3月1日鎮圧された。江藤は逃れて鹿児島や高知に潜入し,西郷隆盛や林有造に決起を促したが拒否され,28日高知県甲浦(かんのうら)(現,東洋町)で逮捕された。島も逃亡後逮捕され,江藤と島は梟首(きょうしゅ)に,ほか11人が斬首となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「佐賀の乱」の解説

佐賀の乱
さがのらん

1874(明治7)年,佐賀県でおこった明治政府に対する最初の士族反乱
征韓論に敗れて帰郷した前参議江藤新平らを中心に佐賀の不平士族が「征韓・旧制度復活・攘夷」を唱えて挙兵したが,政府軍に鎮圧された。

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世界大百科事典(旧版)内の佐賀の乱の言及

【江藤新平】より

…73年参議となり,西郷隆盛,板垣退助らと征韓論を唱え,敗れて辞職。74年1月板垣らと民撰議院設立建白を政府に提起したが,2月佐賀に帰って征韓即時断行を主張して佐賀の乱の首謀者となる。政府軍に鎮圧され,再挙をはかるため脱走したが土佐甲浦で逮捕され,4月13日佐賀城内二の丸刑場にて梟首(きようしゆ)刑に処せられる。…

【士族反乱】より

…そしてそれは,ときには〈世直し〉の潮流と重なり複合的な矛盾による重層的危機を引き起こしていた。だが明治6年10月の政変(1873),すなわち,いわゆる征韓論の分裂による下野諸参議が,一方では民撰議院設立建白書を提出し,他方では士族反乱という形をとるに及んで,この士族反乱は組織的となり,佐賀の乱から西南戦争へと連なっていく。と同時に,この明治6年10月の政変を契機に士族反乱の件数は急増し,またそれ以前の反乱が藩(県)庁に向けられていたのに対し,以後のものは明治(中央)政府に対する大規模な反乱へと変貌する。…

【島義勇】より

…佐賀の乱の首謀者。佐賀藩士。…

※「佐賀の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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