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佐賀の乱 さがのらん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

佐賀の乱
さがのらん

1874年2月に佐賀県下の士族が中心となって起した反政府反乱。当時の佐賀県には,強硬に征韓論を唱える征韓党や,中央政府の推し進める強権的資本主義化に反対し,旧武士層の利害を代表して封建復活を唱える憂国党などがあり,政治的には反明治新政府の牙城であった。 74年1月,大久保利通岩倉具視らとの征韓論をめぐる政治的抗争に敗れた江藤新平が,下野して征韓党首領となるや,佐賀県の不平士族は反乱へと積極的に動きはじめ,征韓党は島義勇を首領とする憂国党と合体,旧弘道館に本部を設置し,「征韓先鋒請願事務所」を名のった。征韓党と憂国党が同年2月1日,政商小野組を襲撃して兵をあげる準備をするなど不穏な動きをみせたことを契機に,政府は反乱鎮圧に乗出し,参議大久保利通を全権とする鎮圧軍を組織してこれを佐賀へと向わせた。反乱軍は,およそ 3000名を数え,一時,佐賀県庁 (旧佐賀城) を占拠するなど抗戦を続けたが,最新兵器で武装した政府軍の前に歯が立たず,2月いっぱいで鎮圧された。江藤と島は逃走したが,2月 29日に江藤が四国で,3月7日には島が鹿児島でそれぞれ捕えられ,裁判の末4月 13日,ともにさらし首の刑に処せられた。また刑は,ほかに斬罪 11名,懲役 130名という強硬なものであり,内乱鎮圧に対する新政府の強い態度を示すものであった。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

佐賀の乱

1874年2月、佐賀で起こった士族の反乱。佐賀藩士出身で明治政府の司法卿などを務め、征韓論を唱えて敗れた江藤新平らが主導した。一時は県庁を占拠したが、博多から南下した政府軍と朝日山で交戦して敗走を重ね、まもなく鎮圧された。

(2015-09-24 朝日新聞 朝刊 佐賀全県・1地方)

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デジタル大辞泉の解説

さが‐の‐らん【佐賀の乱】

明治7年(1874)江藤新平島義勇らが、明治政府の開化政策に反対する佐賀の不平士族とともに兵を挙げた事件。敗れた江藤・島はさらし首に処せられた。

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百科事典マイペディアの解説

佐賀の乱【さがのらん】

1874年征韓論争に敗れて下野した前参議江藤新平が中心になり,島義勇(しまよしたけ)の率いる憂国党と結んで佐賀で蜂起(ほうき)した反政府士族反乱。征韓・旧制度復古・攘夷をスローガンとしたが予期した西郷隆盛らの応援もなく,全権を受けた大久保利通の指揮下の追討政府軍に鎮圧された。
→関連項目児玉源太郎士族反乱谷干城山県有朋

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世界大百科事典 第2版の解説

さがのらん【佐賀の乱】

1874年(明治7),前年の〈征韓論分裂〉で下野した参議江藤新平が,佐賀で起こした士族反乱。明治6年10月の政変(征韓論分裂)で,参議西郷隆盛らと下野し,また板垣退助らと民撰議院設立の建白書に名を連ねた江藤は,郷里の佐賀に帰った。佐賀の征韓党はこの江藤を首領とし,これまで拮抗していた憂国党(1873年,秋田県令をやめた島義勇を首領)と対政府行動を共にするに至った。74年2月1日,3000余人(のち1万1000余に達する)は小野商会を襲って行動を起こした。

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大辞林 第三版の解説

さがのらん【佐賀の乱】

1874年(明治7)征韓論を主張して下野した江藤新平と、島義勇よしたけら不平士族が佐賀に挙兵した事件。まもなく政府軍に敗れ、江藤・島らは梟首きようしゆに処せられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

佐賀の乱
さがのらん

1874年(明治7)2月佐賀県の征韓・憂国両党に結集する士族1万1000余人が明治政府に反対して蜂起(ほうき)、鎮定された事件。士族反乱の一つ。73年8~10月の征韓論争の破裂後、佐賀県内には民権派など進歩派士族をも含めた征韓党と保守派士族を糾合した憂国党が結成された。翌74年1月征韓党は征韓論争後下野し、「民撰(みんせん)議院設立建白書」に署名して帰国した前参議江藤新平(しんぺい)を迎えて党首とし、また憂国党は、維新後北海道開拓使判官、侍従、秋田県令などを経て東京にとどまっていた島義勇(よしたけ)を迎えて2月14日党首とし、ここに両党は2月佐賀で反乱を起こした。政府は2月4日、鎮圧のため出兵を命令。13日、江藤らは「決戦の議」を発し、18日佐賀県庁を占拠した。しかし、政府が佐賀県下士族の動揺をいち早く察知し兵を進めたため、反乱軍は高知、熊本、中津(大分県)などからの予定した援軍を得られず、2週間の戦闘ののち鎮定された。4月江藤(高知県で捕縛)、島(鹿児島県で捕縛)2人は晒首(さらしくび)の刑を受け、ほかに400人余が処罰された。江藤らは国権が全うされて初めて民権が実現されるのであり、その国権を損なっているのは岩倉具視(ともみ)、大久保利通(としみち)など一部高級官僚であるとして、高級官僚の専制体制の打破を挙兵の目的としていたが、政府への批判を募らせる一般民衆との結合はまったく考えなかった。[猪飼隆明]
『黒龍会編『西南記伝 上巻2』(1908・黒龍会/復刻版・1969・原書房) ▽後藤靖著『士族反乱の研究』(1967・青木書店) ▽杉谷昭著『江藤新平』(1962・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の佐賀の乱の言及

【江藤新平】より

…73年参議となり,西郷隆盛,板垣退助らと征韓論を唱え,敗れて辞職。74年1月板垣らと民撰議院設立建白を政府に提起したが,2月佐賀に帰って征韓即時断行を主張して佐賀の乱の首謀者となる。政府軍に鎮圧され,再挙をはかるため脱走したが土佐甲浦で逮捕され,4月13日佐賀城内二の丸刑場にて梟首(きようしゆ)刑に処せられる。…

【士族反乱】より

…そしてそれは,ときには〈世直し〉の潮流と重なり複合的な矛盾による重層的危機を引き起こしていた。だが明治6年10月の政変(1873),すなわち,いわゆる征韓論の分裂による下野諸参議が,一方では民撰議院設立建白書を提出し,他方では士族反乱という形をとるに及んで,この士族反乱は組織的となり,佐賀の乱から西南戦争へと連なっていく。と同時に,この明治6年10月の政変を契機に士族反乱の件数は急増し,またそれ以前の反乱が藩(県)庁に向けられていたのに対し,以後のものは明治(中央)政府に対する大規模な反乱へと変貌する。…

【島義勇】より

…佐賀の乱の首謀者。佐賀藩士。…

※「佐賀の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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