建築家、耐震構造学の権威。明治13年4月11日、山形県西置賜(にしおきたま)郡荒砥(あらと)町(現、白鷹(しらたか)町)に生まれる。第二高等学校を経て1903年(明治36)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、鉄骨およびコンクリート構造学を研究した。さらに耐震構造学を開拓し、1915年(大正4)「家屋耐震構造論」を発表、同時に耐火・耐風などの防災建築研究を開始した。1918年東京帝国大学教授となり、1923年の関東大震災の帝都復興計画には復興院建築局長を兼任して参画、区画整理事業を指導した。日本建築学会会長も務めた。最初の鉄骨構造建築である東京・日本橋の丸善書店の設計(1909)のほか、広く教育界、行政界でも高い功績を残している。昭和31年12月5日没。
[村松貞次郎・藤原恵洋]
明治〜昭和期の建築構造学者 東京大学名誉教授;日本大学名誉教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…剛構造rigid structureに対する用語で,1927年ごろから31年ごろにかけて,真島健三郎と佐野利器の間で交わされた柔・剛構造論争によって,建築家だけでなく一般社会の人々にもよく知られるようになった。真島は煉瓦や鉄筋コンクリートの壁体建築は大地震による巨大な力には耐えられず,鉄骨架構の柔軟性をもった建築だけが理論的に地震動に耐えられるものだと主張し,佐野は真島理論は複雑な地震現象を単純化しすぎていて非現実的であり,実務上は静的な設計震度(1924年から市街地建築物法に規定された)を用いて建物をできるだけ剛強に設計すべきだと主張した。…
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【日本の超高層建築】
地震国である日本にとって,超高層建築が成立するためには,地震に対して建物が安全であるための理論的研究が必要であった。1900年代の初め,佐野利器,内田祥三,内藤多仲らによって始められた鉄骨鉄筋コンクリートの骨組みに,鉄筋コンクリートの耐震壁を配置するという耐震構造の研究は,1923年の関東大震災によって初めてその有効性が実証された。翌24年には,市街地建築物法の改正が行われ,地震時に建物に加わる地震力としての水平震度の規定が初めて設けられた。…
※「佐野利器」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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