佐野藩(読み)さのはん

藩名・旧国名がわかる事典 「佐野藩」の解説

さのはん【佐野藩】

江戸時代下野(しもつけ)国安蘇(あそ)郡佐野(現、栃木県 佐野市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は観光館。中世以来の豪族だった佐野氏は、房綱(ふさつな)のとき、1590年(天正(てんしょう)18)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐の戦功で、3万9000石を安堵(あんど)され立藩した。関ヶ原の戦いでは東軍に与して所領は保たれたが、1602年(慶長(けいちょう)7)に、関東屈指の堅城といわれた唐沢山(からさわやま)城の破却を命じられ、春日岡(かすがおか)城へと移った。家督は養子の信吉(のぶよし)に譲られたが、14年、信吉の実兄宇和島主の富田信高(とみたのぶたか)の改易(かいえき)に連座して信吉も改易され、佐野藩は廃藩になった。一時天領となったが、84年(貞享(じょうきょう)1)に、大老古河主の堀田正俊(ほったまさとし)の3男正高(まさたか)に1万石が分与されて佐野藩が復活した。しかし堀田氏は98年(元禄11)に近江(おうみ)国堅田(かただ)に移封(いほう)され、また廃藩となった。再び天領となったが、1826年(文政9)に堀田正敦(まさあつ)が堅田藩から移封されて佐野藩が再興、以後堀田氏が明治維新まで存続した。領地は、下野国上野(こうずけ)国、近江国の3国に分散し、計1万6000石だった。71年(明治4)の廃藩置県により、佐野県を経て栃木県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐野藩」の意味・わかりやすい解説

佐野藩
さのはん

下野(しもつけ)国佐野(栃木県佐野市)周辺に置かれた小藩。中世以来の豪族佐野氏は、豊臣(とよとみ)秀吉より本領安堵(あんど)されて立藩。1602年(慶長7)居城を唐沢山(からさわやま)城から佐野天明(てんみょう)町の春日岡(かすがおか)(春日)城に移した。その後、大坂冬の陣直前の1614年、藩主佐野信吉(のぶよし)は大久保忠隣(ただちか)失脚事件の最中、実兄冨田(とみた)信高(宇和島(うわじま)藩主)が坂崎直盛(なおもり)と争った事件に連座し3万9000石の領地を没収され廃藩となった。1684年(貞享1)大老であった古河(こが)藩主堀田正俊(ほったまさとし)の領地のうち三男正高に1万石が分けられ佐野藩が復活。1698年(元禄11)領地が近江(おうみ)国堅田(かたた)(滋賀県大津市)に移されて一時廃藩となったが、1826年(文政9)堀田氏がふたたび佐野に復帰した。領地は下野、上野(こうずけ)(群馬県)、近江3国に1万6000石が分散している。佐野町は彦根(ひこね)藩の領地のため、植野(うえの)村(佐野市植野町)に陣屋を置いた。明治になり佐野県を経て栃木県の管轄となった。

[奥田謙一]

『『佐野市史』全7巻(1979・佐野市)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐野藩」の意味・わかりやすい解説

佐野藩
さのはん

江戸時代,下野国 (栃木県) 安蘇郡佐野地方を領有した藩。初め佐野氏が慶長 19 (1614) 年まで3万 9000石で在封,次いで貞享~元禄年間 (84~1704) に堀田氏が1万石で在封,その後再び天領となり,文政9 (1826) 年に堀田氏が1万 6000石で再封して廃藩置県にいたる。堀田氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「佐野藩」の解説

佐野藩

下野国、佐野(現:栃木県佐野市)周辺を領有した藩。中世以来の豪族・佐野氏が豊臣秀吉の本領安堵を得て立藩。大坂冬の陣直前に、藩主・佐野信吉が兄の宇和島藩主・富田信高の改易に連座し、廃藩となる。幾度かの再興、廃藩の後、文政年間に堀田氏により再興、明治維新まで存続した。

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