保津村
ほづむら
[現在地名]亀岡市保津町
北は毘沙門村・勝林島村、西および南は保津川(大堰川)を隔てて西から宇津根村・追分村・古世村・柏原村・山本村、東は牛松山。対岸の山本村とともに保津峡谷の入口を扼する。
村内に保津城跡があり、多数の塁跡が認められる。観応三年(一三五二)五月、中津川秀家が保津城を攻略している(遠山家文書)。永正年間(一五〇四―二一)のものと思われる細川高国の「保津諸侍中」宛の感状および書状(保津五苗文書)があり、細川政元の養子高国と同澄元の丹波守護職をめぐる争いで保津の諸侍は高国方であったことがわかる。享禄四年(一五三一)五月二三日には高国の部将内藤彦七が同城で丹波から入京する細川晴元の兵を防ぎ敗死している(実隆公記、二水記)。
江戸時代は、集落の中を流れ保津川に注ぐ愛宕谷川を境として南保津村・北保津村の二村に分れていたが、元来一村であり、諸事同じようにあるいは合同でなされていることが多い。寛延二年(一七四九)の両保津村委細帳(保津自治会文書)によると、村高は南保津村一一六〇・九〇七七石、北保津村九〇七・三〇二三石、家数は南保津村二五一、北保津村一二五。寛永一一年(一六三四)以来亀山藩領。天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」に、村高は南保津村一一八四・五〇四七石、北保津村九一〇・〇五三三石、家数は南保津村三〇九、北保津村一三二、両保津村とも五穀は上品で、牛蒡が佳品であると記す。
先述の感状および書状の宛名である諸侍の子孫が、侍衆(五姓あって寛文五年から五苗と称する)として村落を支配したのは河原尻村・馬路村と同様である。下人小百姓江掟書(保津五苗文書)があり、家作から衣服・履物・言葉遣い・共有山の利用等々細部にわたっていた。
禁裏御料杣地であった山国・黒田地方(現北桑田郡京北町)を中心として産する丹波材は、古代以来主として保津川の筏を利用して京都へ搬出された。この輸送ルートのなかで最大の難所は保津峡で、その入口にある保津と山本は中継地としての重要度が高かった。
保津村
ほうづむら
[現在地名]岩国市保津町一―二丁目の全域と青木町三丁目の一部
青木村の南、通津村の北に位置し、東は瀬戸内海に面する。寛永二〇年(一六四三)に岩国庄を分割してできた小村の一つで、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に村名がみえる。
村名について「保津長者屋敷より一浴むかうの山鼻に穴あり、昔、金を入置候所也、依
之むかしは宝津といひし由、古老の伝也」と「玖珂郡志」に記す。小名に、大ばん・柿内・岡屋敷・赤ヶ迫・殿垣内・御堂垣内・南田などがある。
保津村
ほうづむら
[現在地名]松阪市保津町
魚見村の東にあり、北は大垣内村、東は多気郡志貴村(現明和町)、南は六根村に続く。「飯野郡保津村誌」(松阪市役所機殿出張所蔵)によれば、南北朝期仁木義長の押領があり、応仁の乱後、北畠氏の支配に属した。天正一二年(一五八四)蒲生氏の支配下となり同一八年から鳥羽九鬼氏に属した。
保津村
ほつむら
[現在地名]田原本町大字保津
田原本の西北方にあり、環濠集落。北は宮古村。「大和志」「万葉代匠記」は「万葉集」巻一三の長歌の「みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り(下略)」の「穂積」の地という。慶長郷帳や「大和志」は「穂津村」と書く。「大乗院雑事記」には「保津新」という国民の名がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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