中国で,政府がいくつかの戸を組み合せて連帯責任を負わせ,民衆の把握,治安の維持,租税の徴収などを意図した一種の隣組制度。保,甲ともに戸籍編成の単位をいう。秦の什伍の制,北魏の三長制,唐の隣保制なども関連がある。代表的な保甲法は,宋の王安石らの新法の一環として1070年(熙寧3)から実施された。10家(のち5家)を1保,5保を1大保,10大保を1都保に組織したうえで,自警団を作らせ,また徴税を請け負わせた。さらに首都圏と遼・西夏に接する陝西・山西・河北とでは,保甲単位で成丁に本格的な軍事訓練を施して従来の傭兵に代え,軍事費を削減しようとした。また,保に馬の飼育を課した地方もあった(保馬法)。しかし旧法党が政権を握って以後,保甲法は軍事・警察的性格をしだいに失い,むしろ宋朝の郷村支配の制度に変質していった。明・清時代にも,徴税,戸籍の作成,治安維持などを目的として保甲の制が行われたが,その内容は時代と地域によりさまざまである。
→里甲制
執筆者:浅見 直一郎
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中国、北宋(ほくそう)の政治家、王安石(1021―86)の新法の一つ。郷村の治安維持を目的として、民戸10家を一保、五保を一大保、五大保を一都保とし、それぞれに保長、大保長、都保には都保正と副保正を置き、10~30家を一甲として一保丁を任命した。農閑期には軍事訓練を施し、当時弱体化が著しかった禁軍を補う民兵組織としての役割を担わせようとしたが、農民の抵抗が大きく、民兵化の目的は断念させられた。北宋末に差役(さえき)法が復活すると、郷村の治安維持や催税にあたる耆長(きちょう)、戸長などの役(えき)は保甲の組織を利用して割り当てられるようになり、南宋時代には、保甲制度は役法と合体して、もっぱら催税と治安維持を目的とする隣保組織として運用された。
[島居一康]
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…このような居住地における保以外にも,科挙,任官,旅行,官穀借用など種々の場合に5名で保を結ばせ,共同責任を負わせることが広く行われた。 北宋の1070年(熙寧3)に王安石新法の一環として施行された保甲法は,10家を保,50家を大保,5大保を都保とし(3年後京畿では5,25,250家に改正),保長,大保長,都保正,副保正を任じ,主客戸の2丁以上ある戸から1丁を選んで保丁とし,交代で夜間の防犯警備に当たらせ,武器の使用を認め団体的軍事訓練をほどこし民兵として活用を目ざした。契丹,党項(タングート)等外族の強圧に抵抗し,兵制の弱点を補い同時に治安強化を意図したこの法は,民兵化をきらう農民の非協力と旧法党の反対により十数年で廃止をみた。…
※「保甲法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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