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三長制 さんちょうせいSan-zhang-zhi; San-chang-chih

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

三長制
さんちょうせい
San-zhang-zhi; San-chang-chih

中国,北魏の太和 10 (486) 年に制定された村落統治機構。5家を隣,5隣を里,5里を党とし,隣,里,党それぞれに長をおいた。三長には在地の有力で謹慎な者を選んであてた。国家は三長を通じて戸籍の調査を行い,土地を収授し,租・調を取るたてまえをとった。党長 (行政村落の長) は里正の職分を受継いだようである。三長制はのち変化して二長制となるが,これは隋の開皇9 (589) 年廃止された。

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デジタル大辞泉の解説

さんちょう‐せい〔サンチヤウ‐〕【三長制】

中国、北魏の地方行政制度。戸籍の整理と租税徴収の円滑化を目的とし、五家を一隣、五隣を一里、五里を一党としてそれぞれに長を置いた。486年から施行

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世界大百科事典 第2版の解説

さんちょうせい【三長制 Sān zhǎng zhì】

中国,北の486年(太和10)警察・徴税機能の強化をめざす李沖の献策を文明太后らが取り上げ実施した隣保制度(隣保制)。5家を隣,5隣を里,5里(125家)を党とし,それぞれに長をおき党や里はそれぞれの長の名でよばれた。まもなく100家1党に改められ,畿内では党・里・隣の代りに族・閭(りよ)・比の名称が採用され,のち北斉では100家・50家・10家に変更され,西魏北周では比・隣を廃し二長制となり,隋初に天下統一とともに廃止され,漢以来の郷里制と五家保制に移行した。

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大辞林 第三版の解説

さんちょうせい【三長制】

中国、北魏の孝文帝が486年に制定した郷村組織。戸籍・税制の整備のため五家を隣、五隣を里、五里を党とし、それぞれに長をおいたもの。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

三長制
さんちょうせい

中国、北魏(ほくぎ)の孝文帝治下の486年に施行された郷村制度。三長の名は、5家ごとに1鄰長(りんちょう)、5鄰ごとに1里長、5里ごとに1党長を設けたことに由来し、『周礼(しゅらい)』の郷党制度が理念的背景にある。三長には一定の徭役(ようえき)を免除し、主として戸籍作成と税役徴発の事務をつかさどらせた。北魏では、初め宗主とよぶ豪族に民衆の取締りを許したため、50家、30家が1戸として戸籍に一括登録されて宗主の被護下に入り、国家の賦役に応じないという状態がみられた。このような豪族の支配下にある民衆を国家が直接把握し、賦役の不公平と貧富の格差とを是正し、国家権力の基盤を整備しようとして創設されたのが三長制である。[渡辺信一郎]
『松本善海著『中国村落制度の史的研究』(1977・岩波書店)』

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世界大百科事典内の三長制の言及

【隣保制】より

… 《続漢書》百官志に〈民に什伍あり,善悪をもって告ぐ〉と記され,南朝では同伍内の犯法に連座する場合,士の身分の者や奴婢の取扱いをどうするか論議されていて,五家で組織する保が郷里内で大きな役割を担っていた様相がうかがわれる。北朝の北魏で486年(太和10)に施行された三長制は,約1世紀にわたり均田・均賦制と組み合わせて警察・徴税機能の強化に成績をあげた。隋の全国統一により三長制の後身2長は廃止され,5戸の保だけ残された。…

※「三長制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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