出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、北魏(ほくぎ)の孝文帝治下の486年に施行された郷村制度。三長の名は、5家ごとに1鄰長(りんちょう)、5鄰ごとに1里長、5里ごとに1党長を設けたことに由来し、『周礼(しゅらい)』の郷党制度が理念的背景にある。三長には一定の徭役(ようえき)を免除し、主として戸籍作成と税役徴発の事務をつかさどらせた。北魏では、初め宗主とよぶ豪族に民衆の取締りを許したため、50家、30家が1戸として戸籍に一括登録されて宗主の被護下に入り、国家の賦役に応じないという状態がみられた。このような豪族の支配下にある民衆を国家が直接把握し、賦役の不公平と貧富の格差とを是正し、国家権力の基盤を整備しようとして創設されたのが三長制である。
[渡辺信一郎]
『松本善海著『中国村落制度の史的研究』(1977・岩波書店)』
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北魏の孝文帝の486年に発布された村落制度。5家を隣,5隣を里,5里を党とし,それぞれに隣長,里長,党長を置く。北魏末に5家を比隣,20家を閭(りょ),100家を党族,北斉では10家を比隣,50家を閭里(りょり),100家を族党と改めた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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… 《続漢書》百官志に〈民に什伍あり,善悪をもって告ぐ〉と記され,南朝では同伍内の犯法に連座する場合,士の身分の者や奴婢の取扱いをどうするか論議されていて,五家で組織する保が郷里内で大きな役割を担っていた様相がうかがわれる。北朝の北魏で486年(太和10)に施行された三長制は,約1世紀にわたり均田・均賦制と組み合わせて警察・徴税機能の強化に成績をあげた。隋の全国統一により三長制の後身2長は廃止され,5戸の保だけ残された。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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