土田村(読み)どたむら

日本歴史地名大系 「土田村」の解説

土田村
どたむら

[現在地名]可児市土田

木曾川南岸にあり、南から北西流する可児川が北西部で木曾川に合流する。中山道が東から北へと通り、太田おおた渡を経て木曾川対岸の太田宿(現美濃加茂市)に至る。村の中ほどで尾張善師野ぜんじの(現愛知県犬山市)方面への道が分岐する。慶長郷帳に村名がみえ高一千九一石余、幕府領。元和元年(一六一五)尾張藩領となる。正保郷帳では田五一九石余・畑九七一石余、松山・草山・草野がある。明暦覚書によれば概高一千三五七石余。中山道筋の枝郷わたまちは太田宿と合宿で伝馬役・舟役を勤め、元高のうち一千石は伝馬役高として引かれ堤役は免除されていた。役舟四艘を錦織にしこおり綱場(現加茂郡八百津町)へ詰め、舟役銭を納める。人数一千一二三・馬八〇。土田・太田宿助郷村のうち可児郡内二五ヵ村は下りの御嵩みたけ宿(現可児郡御嵩町)まで継送っていたが、木曾川出水時には土田から犬山回りの道をとるため善師野宿まで継送った。元禄七年(一六九四)中山道宿駅としては廃止されて助郷村は伏見ふしみ宿(現御嵩町)へ付けられ(「新規伏見宿助郷につき願書」奥村文書)、当地は尾張藩公路木曾街道の宿駅として存続した。

「濃州徇行記」によれば田四七町八反余・畑七一町一反余・山一九町四反余・御林松山九〇町余。


土田村
つちだむら

[現在地名]益田市土田町

土田川流域に位置し、北は須津すつ(現三隅町)、南は宇治うじ村、西は西平原にしひらばら村。地名は津多の意といい(石見国村名考)、遠江国土形ひじかた(現静岡県大東町)から勧請した氏神により、初め土形村、中古に土田村と改めたともいう(石見八重葎)。海岸は白砂にも磯にも恵まれ、良港があり風景も良好。土田川流域の水利がよい。江戸時代の支配の変遷は益田村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高一九七石余、年貢は田方九〇石余・畑方八石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では高一九七石余、免五ツ七分三朱。土田浦では寺戸家が、たか島では島内家が代々世襲的に浦年寄を勤めた。


土田村
つちだむら

[現在地名]近江八幡市土田町

八幡町の南西、白鳥しらとり川右岸の平野部に位置し、朝鮮人街道が通る。枝郷に南東の八木やぎ村、北の小船木こぶなき村がある。弘長三年(一二六三)三月の官御祈願所注進状(門葉記)に土田保がみえ、近江国に課せられた長日如意輪法供米二〇〇石を坂田さかた(現長浜市)とともに便保していた。正平六年(一三五一)の土田保三名田数年貢注文(長命寺文書)によれば、同保内には九町二反大の百姓名(うち一町は長命寺領)、五町二反半三〇歩の得恒名、四町二反の武松(名)などがあった。この長命ちようめい寺領一町は保内の一一条一六里七坪にある一反六〇歩、同九坪の一反半、同三六坪の二反などの田地からなっていて、応安六年(一三七三)四月には貞安の知行が安堵されている(「船橋殿下知状」同文書)


土田村
はんだむら

[現在地名]和田山町土田

平野ひらの村の北西、円山まるやま川左岸に位置する。山陰道筋で、史料上は土田町とみえる場合が多い。中世は土田郷などとみえ、石禾上いさわかみ郷とも称したことから、当地は「和名抄」に記す養父やぶ郡石禾郷のうちであったことが知られる。一七世紀前期・中期とされる国絵図(石川家蔵)では「土田町」とみえ、和田山町および高田たかた町と結ぶ道が記される。慶長一八年(一六一三)九月の小出吉英所領目録(金井文書)に「土田村」とみえ、高九八〇石余とあるのは正保(一六四四―四八)頃の国絵図で高四七一石余とすることから、周辺の諸村を含む村高と考えられる。


土田村
つちだむら

[現在地名]岡山市土田・矢津やづ

長原ながはら村・たから村の北、たつくち(二五七・一メートル)の東端南面に集落がある。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)の「タカラ郷」に村名があり、寛永備前国絵図では高九五五石余。正保郷帳には枝村として矢津村新屋敷しんやしき村が載る。「備前記」によると山寄りの集落で、「備陽記」では田畑六四町八反、家数一一四・人数六七五、池五。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高一千七〇四石余、蔵入と家臣一一人の給地。


土田村
つちだむら

[現在地名]三光村土田

山国やまくに川谷頭の段丘部に散在する土田・野地のじ白地しらじ牛首うしのくびの四字よりなる。東は小袋おぶくろ村、西は山国川、北は臼木うすぎ村。小倉藩元和人畜改帳では二筆に分けて記され、御姫様御領分一九八石余と魚住市正給分四三石余で、家数三二(うち百姓一一・名子七)・人数六〇、牛一〇・馬六とある。元禄豊前国高帳では高一九三石余。「豊前志」に「土田城阯、野仲兵庫頭の抱城にて、百富河内守守りき。今も城が鼻、城が尾と云ふ田の字あり」とある。兎渡うと神社があり、佐知翁と白兎伝説を伝える。


土田村
つちだむら

現土田町地域にあった益田庄内の村。寛元二年(一二四四)一一月三日の沙弥西念譲状(吉川家文書)によれば、西念(三隅兼信)が次男乙法師に譲渡した「すんつの浦」(現三隅町)の西の境として「土田湊」がみえる。土田村としてみえるのは建長七年(一二五五)三月一五日の北条時頼書状(益田家文書)で、「益田庄内乙吉并土田村」は乙吉小太郎兼宗の所領としてみえる。土田村はもとは弥富やとみ名に属していたが、鎌倉初期に弥富名の一部(小弥富)が三隅氏初代兼信に分割譲渡されたのに伴い、別途乙吉氏に与えられたと推定され、以後鎌倉・南北朝期を通じて乙吉氏の所領とされた。


土田村
つちだむら

[現在地名]大淀町大字土田

吉野川北岸の伊勢南街道(現国道一六九号)沿いに開けた街村。地元では土田を「つった」という。和歌山藩主の参勤交代路でもあるため、東に続く越部こしべ村、上流の鷲家わしか(現東吉野村)とともに和歌山藩領。

官上かんじよう郷のうち。慶長郷帳では村高二一一・八石、幕府領(代官楢村監物)。元和五年(一六一九)和歌山藩(徳川頼宣)領に編入された。寛永郷帳に村高二一一・八石、元禄郷帳では二一二・五五石、慶応四年(一八六八)の御領分御高并村名帳(「南紀徳川史」所収)には「一、高弐百拾弐石五斗五升 土田村」とみえる。

中尾含真の「土産枝折鞭」に「土田今木より一里余 民家多く町長し、馬駅也」、貝原益軒の「南遊紀行」に「土田は下淵より十町ほど上にあり。


土田村
つちだむら

[現在地名]多賀町土田

多賀村の北西にあり、北部をせり川がよぎる。浄土真宗本願寺派専行せんぎよう寺に土地売買関係を中心とする三〇余点の中世文書が残り、地名・人名、当時の利子などがうかがえる。延徳元年(一四八九)一二月二〇日の売渡証文では、守励なる人物が当村の私領を代銭六貫文で売渡している。永正一七年(一五二〇)一〇月一三日の文書では、字中多賀の薗堂次郎衛門尉資之が私領田地ならびに作職を三貫七〇〇文で売渡している。大永四年(一五二四)七月の永代売渡証文では、敏満びんまん寺蓮台坊領の三反が銭六貫文で売られている。その土地は百桝ひやくますといい、現在も残る小字名で、年貢九斗は公方年貢で、そのうち五斗は石灰いしはい庄政所へ納めるべきものとされている。


土田村
つちだむら

[現在地名]清洲町土田

東を清洲村、南を海東かいとう上条じようじよう村、西を同郡もり(現海部郡甚目寺町)、北を中島郡増田ました(現稲沢市)・海東郡廻間はさま村と接する。寛文一一年(一六七一)には家数五九、男一五六人・女一三七人(寛文覚書)。「徇行記」によると、田は三五町八反余、畑は一四町七反四畝弱、概高七九三石余のほとんどが藩士一三人の給知で、領高外の八幡社領(黒印領)三〇石余があった。


土田村
はんたむら

[現在地名]小国町宮原みやばる

杖立つえたて川沿いに集落があり、北は下城しものじよう村、南は若宮わかみや村に接する。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)には、「かふりかた」として「一所はにた」とある。また近世に当村の小村となる湯の原ゆのはらも記され、それぞれ銭と豆を負担している。慶長国絵図に村名がある。北里手永に属し、「国誌」は土田村を三村併記する。一四〇石余「当村ヲ里俗ハ半田村ト云リ」、七五石「但シ町分」、二九九石余「但百姓分、当村ノ内湯ノ原・竜泉寺村等ノ小村アリ」とある。


土田村
つちだむら

[現在地名]亀岡市大井おおい町土田

大井村の北西にあり、集落南西を丹後道が通る。東は大堰おおい川が流れ、北は小林おばやし村、西は山麓の金岐宿かなげしゆく村。「つった」ともいう。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば戸数六一、仙洞御料(三三石余)と亀山藩領(三五六石余)との入組地。


土田村
どだむら

[現在地名]新井市土田

籠町南葉かごまちなんば山の東山麓、矢代やしろ川西岸に位置し、矢代川支流のうち川により灌漑され、梨木なしのき村・藤塚ふじづか新田に接する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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