光徳寺(読み)こうとくじ

日本歴史地名大系 「光徳寺」の解説

光徳寺
こうとくじ

[現在地名]柏原市雁多尾畑

信貴しぎ山南斜面の丘陵地に所在。当地を通り北方本堂ほんどうを経て信貴山毘沙門天(奈良県生駒郡平群町の信貴山寺、朝護孫子寺)へ通ずる山道がある。真宗大谷派、山号松谷山、本尊阿弥陀如来

寺伝によると永延二年(九八八)比叡山延暦寺の僧尋禅の弟子法円が当地を巡教、円融法皇の勅願によって一宇を建立したのに始まると伝え、東広山照曜峰寺と称し、台密の霊場であったという。当寺では法円を元祖とする。天永四年(一一一三)奈良興福寺の僧兵に焼かれ荒廃した(「松谷伝承記」寺蔵)。その後俊円が開基となり、安貞二年(一二二八)再興。俊円は近江園城寺(三井寺)の僧であったが信貴山毘沙門天の霊夢によって当地に来住し、後堀河天皇の宣旨によって再建したという。その宣旨が当寺に伝わり、それには「改東広山照曜峰寺、号照曜山光徳寺」とあり、大県おおがた郡山中の三〇〇町が境内地として寄付されている(ただしこの文書は検討を要する)。俊円は安居院聖覚に師事し、さらに親鸞の念仏門に入り松谷仏念房信乗と称した(松谷伝承記)。寛喜元年(一二二九)俊円は梵鐘を鋳造し、銘に南無阿弥陀仏の六字名号を刻した。ただし以上は江戸時代に鋳造された鐘に施された旧銘によっており、この銘は作為の可能性もあるとされる。なお光徳寺の本堂を雁林かりん堂というが、この鐘銘にみえている。銘が寛喜元年のものであれば、これ以後当寺は一向専修の道場になったと考えられ、河内における真宗寺院の嚆矢であろう。当寺三代乗栄は本願寺三世覚如と交流し、元徳二年(一三三〇)「聖徳太子御絵伝」を著し布教活動を活発に行った。


光徳寺
こうとくじ

[現在地名]七尾市馬出町

木越山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。もとは河北かほく木越きごし(現金沢市)に所在したところから木越光徳寺と称される。文安六年(一四四九)五月本願寺蓮如が父存如の祐筆として書写した「三帖和讃(西本願寺蔵)に「加州木越光徳寺」とみえ、在京中の当寺性乗に和讃を付与した。宝徳三年(一四五一)八月一六日、性乗は存如から「教行信証」(同寺蔵)を下付されており、長禄二年(一四五八)七月二八日には蓮如から「六要鈔」(同寺蔵)を与えられている。文明三年(一四七一)六月、当寺乗誓は蓮如から親鸞絵伝四幅を下付されており(西光寺蔵絵伝裏書)、室町期における本願寺との関係は深い。

年不詳であるが、七月四日の光徳寺門徒中宛蓮如書状(光徳寺文書)、一〇月二四日の木越光徳寺宛蓮如書状(真念寺文書)は、同寺の坊主・門徒などに乱妨を戒めたもので、蓮如の花押の形状から、文明六―七年の加賀一向一揆にかかわるものと推定される。


光徳寺
こうとくじ

[現在地名]東伯町公文

随意金地亀福山と号し曹洞宗で、本尊は十一面観音。要害ようがい山の西麓にある山門が名高い。寺伝によれば出雲守護代尼子持久が永享四年(一四三二)退休たいきゆう(現中山町)の僧で源翁心昭の孫弟子にあたる出雲三刀屋氏一族の出身無余空円に帰依し、もと野田のた村にあった天台宗寺院を現在の寺地に移し、改宗して尼子氏の祈願所としたことに始まるという。持久は翌五年には本堂・庫裏を建立、その子清定も嘉吉二年(一四四二)に開山堂・山門・鐘楼を建立したと伝えられている。


光徳寺
こうとくじ

[現在地名]福光町法林寺

躅飛山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。文明三年(一四七一)道乗が開基。道乗は武士高坂四郎左衛門の舎弟治部といい、蓮如に帰依して法名道乗を与えられ、蓮如が砂子坂すなござか(現石川県金沢市)下向のとき本尊を下付されたという(「五尊裏書」善徳寺文書)。四郎左衛門は「闘諍記」にみえる坊坂四郎左衛門と同一人物であろう。坊坂四郎左衛門は石黒家分で、桑山くわやま城を預かっていたがわけあって城を追われ、土山どやま(のちの勝興寺)に在住、加賀一向一揆と語らって医王いおう惣海そうかい寺を焼亡させた。


光徳寺
こうとくじ

[現在地名]桑名市新町

しん町西側南端にあり、東海道に面する。鎮照山凝念院と号し、浄土宗鎮西派。本尊阿弥陀如来坐像。「寛文寺記」(「桑名志」所収)に「宗祖上人法然飛錫於遠州桜池時信宿桑名泡州、天文二年光念上人追宗祖之旧跡隠居桑名泡州創念仏場、号光徳寺、慶長八年為知恩院末」とある。塔頭に松寿しようじゆ院・称専しようせん院・信楽しんぎよう院がある。境内社に泡州あわす八幡社があり、新町の産土神。東海道宿村大概帳(逓信博物館蔵)には「往還付に手広に有之、宿方差支之節は、休泊請候義も有之」とある。明治一〇年(一八七七)三月二七日に火災で建物は全焼し、さらに昭和二〇年(一九四五)七月の戦災により再び焼失。


光徳寺
こうとくじ

[現在地名]横手市大屋新町字中里

南北に走る道からわずか西にあり、東の方角の山上に大屋館おおやだて跡がある。真宗大谷派、新田山と号し、本尊十一面観世音。

「雪の出羽路」の同寺系譜によれば、新田義貞の子孫次郎右衛門尉興徳、すなわち釈ノ円祐が戦国時代に陸中黒沢尻くろさわじり(現岩手県北上市)興徳こうとく寺を創建し、永正一二年(一五一五)光徳寺と改名、同一六年奥州飢饉の節、平鹿ひらか馬鞍まくら村(現平鹿郡平鹿町醍醐だいご)に移り、三世浄専の時、大屋城主日野備中守の帰依を受け、永禄年中(一五五八―七〇)現在地に移転。


光徳寺
こうとくじ

[現在地名]下館市乙 泉町

浄土真宗本願寺派、岡崎山と号し、本尊は阿弥陀如来。嘉禄二年(一二二六)親鸞の弟子信楽坊の開基と伝えられる。信楽坊は俗姓を相馬義清と称し、千葉介常胤の嫡子相馬二郎師常の子とされ、結城郡新堤にいつつみ(現八千代町)に住んでいたが、親鸞が建暦二年(一二一二)関東地方で布教を始めた頃、親鸞の法話を聞き弟子になったと伝えられ、当寺のほか、新堤に弘徳こうとく寺、築地ついじ(現真壁郡明野町)西光さいこう寺を建立する(光徳寺寺伝)


光徳寺
こうとくじ

[現在地名]村上市羽黒口

臥牛がぎゆう山の西側山麓にある。常照山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。村上藩主内藤氏の菩提寺。寺伝によれば初め光顕こうけん寺と称され、寛文七年(一六六七)から宝永元年(一七〇四)の榊原氏の代には瑞峯ずいほう寺、同七年から享保二年(一七一七)松平輝貞の代には天休てんきゆう院とよばれ、同五年内藤氏の入封後光徳寺と改められたという。


光徳寺
こうとくじ

[現在地名]城南町隈庄

隈庄くまのしようの中央、二之町にある浄土真宗本願寺派寺院。山号は無量寿山。本尊は阿弥陀如来。「国誌」には「慶長年中開基之同十七年西本願寺ヨリ寺号ノ証書アリ年貢地ナリ」と記す。「下益城郡誌」には合志兵庫頭隆賢が剃髪し、本願寺顕如から道玄という法名を授かり、永正年中(一五〇四―二一)に開基したとする伝えを載せる。


光徳寺
こうとくじ

[現在地名]黒磯市百村

村本田集落近くの山麓にあり、すぐ脇を東に護安ごあん沢が流れる。霊泉山と称し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。明応二年(一四九三)能山聚芸が一堂を建立、そののち護安が来住したが法嗣がないために廃絶した。近世初頭頃那須氏一族の福原氏により理岩宗察を開山として再興された。


光徳寺
こうとくじ

[現在地名]多気町井の内林

津田つだ神社のすぐ裏にあたり、同社の別当寺といわれる。山号常住山。真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。大般若経四二七巻が残り、その奥書によると康永三年(一三四四)に書写されたものが主で、ほかに承安三年(一一七三)・元応二年(一三二〇)・正平六年(一三五一)・同八年・同一一年などに書写されたものがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「光徳寺」の解説

光徳寺

(長野県木曽郡南木曽町)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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