秋瑾(読み)シュウキン(その他表記)Qiū Jǐn

デジタル大辞泉 「秋瑾」の意味・読み・例文・類語

しゅう‐きん〔シウ‐〕【秋瑾】

[1875~1907]中国末の女性革命家。浙江せっこう紹興の人。日本留学中に中国革命同盟会に入り、帰国して革命運動に従事浙江武装蜂起を計画したが、発覚して処刑。チウ=チン

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改訂新版 世界大百科事典 「秋瑾」の意味・わかりやすい解説

秋瑾 (しゅうきん)
Qiū Jǐn
生没年:1875-1907

中国,近代,最初の女性革命家,婦人解放運動の先駆者。字は璿卿(せんけい),号は競雄。鑑湖女俠と自称した。厦門アモイ)に生まれる。原籍浙江省山陰県(現,紹興),魯迅と郷をともにする。生年については,1877,78,79年の諸説がある。祖父,父ともに地方官を歴任した読書人の家庭に育ち,父命に従って湖南省湘潭の富商の息子,王廷鈞に嫁し2子をもうけた。戸部主事の官を金で買った夫とともに北京に移り住んだが,そのときの北京は義和団の運動が敗北し,ヨーロッパ列強に対してなすすべを失い狼狽ただならぬ清朝政府の中央でしかなかった。この地で異民族の支配する清朝の腐敗をまのあたりにした秋瑾は,民族の危機を悟るとともに革新思想に触れ救国の思いにかられる。1904年(光緒30),守旧頑迷な王廷鈞のもとを飛び出して革命派の蝟集(いしゆう)する東京に新知識を求めて留学した。下田歌子を校長とする青山実践女学校で教育,看護学などを学ぶかたわら,宋教仁,陶成章(1878-1912)らの革命派人士と交わり,馮自由の紹介により中国同盟会に加入した。これより先,一時帰国した際,母方の従兄徐錫麟(1873-1907)を介して光復会に入会していた。革命と婦人の解放に奔走するその後の短い生涯の一歩を踏み出していたのである。

 06年,日本の文部省が清朝留学生の反清活動を規制するため公布した〈清国留学生取締規則〉に抗議する留学生大会が開かれた。男子学生の陳天華らにまじって即刻の抗議帰国を秋瑾は主張した。会場には抗議に消極的な留学生もいた。同郷の魯迅もその一人であった。短刀をテーブルに投げつけ激昂する秋瑾に,このとき魯迅は死刑を宣告されるという一幕もあった。東京での秋瑾は,和服姿に日本刀をいつも携えていたという。帰国した秋瑾は,07年の春,紹興の大通学堂の校務をとりしきり,身を男装につつんで革命兵士の養成につとめ,浙江省の各地の会党を光復軍に組織した。7月,安徽省の安慶に武装蜂起した徐錫麟に呼応して浙江省の蜂起をはかった。計画は事前に清朝官憲により察知されていた。大通学堂は包囲され従容と縛に就いた。革命の節義を貫き通し,2日のちの黎明の刻,軒亭口に処刑された。

 女の独立と男女の平等を身をもって示し,革命に殉じた秋瑾の言論は今日,《秋瑾集》(中華書局)にまとめられている。そこに収める詩文は,中国の女性史に一閃の光芒を放った生涯の激越さをうかがうに足るものがある。秋瑾をモデルにした人物を登場させる魯迅の小説《薬》は周知の作品であるが,武田泰淳《秋風秋雨人を愁殺す》は,秋瑾の絶命詞(この詞については真偽さだかでない)を題にかぶせた秋瑾伝の秀作である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「秋瑾」の意味・わかりやすい解説

秋瑾
しゅうきん / チウチン
(1875―1907)

中国、清(しん)末の革命家。字(あざな)は璿卿(せんきょう)、号は競雄、鑑湖女侠(かんこじょきょう)。浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)出身。18歳のとき官僚の家に嫁したが、義和団運動に発憤して家庭を捨て、日本に留学して反清革命運動に身を投じた。当時の秋瑾は清服を嫌って和服を着用し、好んで短刀を身につけていた。しきりに革命を鼓吹し、また女性の自覚を促す文章を『中国女報』その他に書いた。1905年(明治38)末、日本政府が出した「清国留学生取締規則」に憤激して留学を打ち切って帰国した。教員をしながら、光復会(浙江省の革命秘密結社)員として革命運動に従事した。1907年、革命家徐錫麟(じょしゃくりん)(1873―1907)とともに武装蜂起(ほうき)を計画し、秋瑾が校長をしていた紹興の大通学堂を根拠地として準備を進めたが、未然に官憲側に察知され、徐錫麟の安徽巡撫(あんきじゅんぶ)暗殺(徐錫麟の役)失敗後、弾圧を受け、秋瑾も処刑された。著作には若干の詩文のほか、弾詞『精衛石(せいえいせき)』がある。

[伊東昭雄]

『武田泰淳著『秋風秋雨人を愁殺す――秋瑾女士伝』(1976・筑摩書房)』『山崎厚子著『秋瑾 火焔の女』(2007・河出書房新社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「秋瑾」の意味・わかりやすい解説

秋瑾
しゅうきん
Qiu-jin; Ch`iu-Chin

[生]光緒1(1875)
[没]光緒33(1907)
中国の婦人革命家。鑑湖女侠と号した。浙江省紹興を原籍とする官吏の家に生れ,父の任地の湖南省出身者と結婚したが,思想的相違から離婚,女性として初めて日本に留学し,中国革命同盟会に入った。光緒 32 (1906) 年日本の留学生取締りに抗議して帰国。紹興で教師をしながら革命運動に従事。同郷の徐錫麟と「光復軍」を編成し,挙兵を計画したが,徐の安徽巡撫暗殺事件で露見して捕えられ,「秋風秋雨,人を愁殺す」の句を残して処刑された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「秋瑾」の解説

秋瑾 しゅうきん

1875-1907 清(しん)(中国)の革命家。
光緒元年10月18日生まれ。結婚後,日本に留学。下田歌子の実践女学校にまなび,秘密結社三合会にくわわる。1906年帰国。浙江省紹興で女子教育にたずさわり,光復会員として革命運動に従事。1907年徐錫麟(じょ-しゃくりん)とともに武装蜂起を計画。清朝官憲に察知され,光緒33年6月5日処刑された。33歳。武田泰淳「秋風秋雨人を愁殺す―秋瑾女士伝」で知られる。福建省出身。字(あざな)は卿。号は競雄,鑑湖女侠など。

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百科事典マイペディア 「秋瑾」の意味・わかりやすい解説

秋瑾【しゅうきん】

中国,清末の女性革命家。別号を競勇,鑑湖女侠などと称した。福建に生まれ,生年には諸説がある。結婚し2子をもうけたが,義和団運動に発憤して家を飛び出し,1904年日本に留学。1905年中国同盟会に参加,同年末日本政府が公布した〈清国人留学生取締規則〉に反対して帰国。1907年《中国女報》を創刊。紹興で革命軍蜂起に呼応しようとして失敗し処刑された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「秋瑾」の解説

秋瑾(しゅうきん)
Qiu Jin

1875~1907

清末の女性革命家。浙江(せっこう)省紹興の人。1904年日本に留学し,中国同盟会に参加。05年冬帰国し,徐錫麟(じょしゃくりん),陶成章(とうせいしょう)らと武力蜂起を企てて失敗,捕えられて処刑された。

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世界大百科事典(旧版)内の秋瑾の言及

【光復会】より

…初代会長は蔡元培であったが,終始,章炳麟の強い影響下にあった。ほかに,陶成章,徐錫麟(じよしやくりん),秋瑾らも有名で,広く江浙一帯の教育界,商業界,会党からの支持を得ていた。大通学堂は,その宣伝および教育機関,会党の竜華会(りゆうげかい)は,主要な実戦部隊であった。…

※「秋瑾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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