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秋瑾 しゅうきん Qiu-jin; Ch`iu-Chin

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

秋瑾
しゅうきん
Qiu-jin; Ch`iu-Chin

[生]光緒1(1875)
[没]光緒33(1907)
中国の婦人革命家。鑑湖女侠と号した。浙江省紹興を原籍とする官吏の家に生れ,父の任地の湖南省出身者と結婚したが,思想的相違から離婚,女性として初めて日本に留学し,中国革命同盟会に入った。

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デジタル大辞泉の解説

しゅう‐きん〔シウ‐〕【秋瑾】

[1875~1907]中国、末の女性革命家。浙江(せっこう)省紹興の人。日本留学中に中国革命同盟会に入り、帰国して革命運動に従事。浙江で武装蜂起を計画したが、発覚して処刑。チウ=チン。

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百科事典マイペディアの解説

秋瑾【しゅうきん】

中国,清末の女性革命家。別号を競勇,鑑湖女侠などと称した。福建に生まれ,生年には諸説がある。結婚し2子をもうけたが,義和団運動に発憤して家を飛び出し,1904年日本に留学。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

秋瑾 しゅうきん

1875-1907 清(しん)(中国)の革命家。
光緒元年10月18日生まれ。結婚後,日本に留学。下田歌子の実践女学校にまなび,秘密結社三合会にくわわる。1906年帰国。浙江省紹興で女子教育にたずさわり,光復会員として革命運動に従事。1907年徐錫麟(じょ-しゃくりん)とともに武装蜂起を計画。清朝官憲に察知され,光緒33年6月5日処刑された。33歳。武田泰淳「秋風秋雨人を愁殺す―秋瑾女士伝」で知られる。福建省出身。字(あざな)は卿。号は競雄,鑑湖女侠など。

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世界大百科事典 第2版の解説

しゅうきん【秋瑾 Qiū Jǐn】

1875‐1907
中国,近代,最初の女性革命家,婦人解放運動の先駆者。字は璿卿(せんけい),号は競雄。鑑湖女俠と自称した。厦門(アモイ)に生まれる。原籍は浙江省山陰県(現,紹興),魯迅と郷をともにする。生年については,1877,78,79年の諸説がある。祖父,父ともに地方官を歴任した読書人の家庭に育ち,父命に従って湖南省湘潭の富商の息子,王廷鈞に嫁し2子をもうけた。戸部主事の官を金で買った夫とともに北京に移り住んだが,そのときの北京は義和団の運動が敗北し,ヨーロッパ列強に対してなすすべを失い狼狽ただならぬ清朝政府の中央でしかなかった。

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大辞林 第三版の解説

しゅうきん【秋瑾】

1875~1907) 中国清末の女性革命家。救国を志して来日。帰国後、光復会に入会。浙江で武装蜂起を計画したが失敗して刑死。チウ=チン。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

秋瑾
しゅうきん / チウチン
(1875―1907)

中国、清(しん)末の革命家。字(あざな)(せんきょう)、号は競雄、鑑湖女侠(かんこじょきょう)。浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)出身。18歳のとき官僚の家に嫁したが、義和団運動に発憤して家庭を捨て、日本に留学して反清革命運動に身を投じた。当時の秋瑾は清服を嫌って和服を着用し、好んで短刀を身につけていた。しきりに革命を鼓吹し、また女性の自覚を促す文章を『中国女報』その他に書いた。1905年(明治38)末、日本政府が出した「清国留学生取締規則」に憤激して留学を打ち切って帰国した。教員をしながら、光復会(浙江省の革命秘密結社)員として革命運動に従事した。1907年、革命家徐錫麟(じょしゃくりん)(1873―1907)とともに武装蜂起(ほうき)を計画し、秋瑾が校長をしていた紹興の大通学堂を根拠地として準備を進めたが、未然に官憲側に察知され、徐錫麟の安徽巡撫(あんきじゅんぶ)暗殺(徐錫麟の役)失敗後、弾圧を受け、秋瑾も処刑された。著作には若干の詩文のほか、弾詞『精衛石(せいえいせき)』がある。[伊東昭雄]
『武田泰淳著『秋風秋雨人を愁殺す――秋瑾女士伝』(1976・筑摩書房) ▽山崎厚子著『秋瑾 火焔の女』(2007・河出書房新社)』

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世界大百科事典内の秋瑾の言及

【光復会】より

…初代会長は蔡元培であったが,終始,章炳麟の強い影響下にあった。ほかに,陶成章,徐錫麟(じよしやくりん),秋瑾らも有名で,広く江浙一帯の教育界,商業界,会党からの支持を得ていた。大通学堂は,その宣伝および教育機関,会党の竜華会(りゆうげかい)は,主要な実戦部隊であった。…

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