日本大百科全書(ニッポニカ) 「全日本労働組合会議」の意味・わかりやすい解説
全日本労働組合会議
ぜんにほんろうどうくみあいかいぎ
略称全労会議。日本労働組合総評議会(総評)の指導を批判して脱退した全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟。のちゼンセン同盟)など右派3組合と日本労働組合総同盟(総同盟)とで1954年(昭和29)4月22日に組合員数公称84万0600人(ほかにオブザーバー2組合、8800人)で結成された全国中央組織(ナショナル・センター)。52年の日本炭鉱労働組合(炭労)・日本電気産業労働組合(電産)争議に対する総評の指導は経済闘争を離れて政治ストの具に供し、共産党と大同小異の宣伝をしているなどと批判した全繊同盟、全日本海員組合(海員)、全国映画演劇労働組合(全映演)、日本放送労働組合(日放労)の四単産は、総同盟、その他の組合幹部有志とともに、53年2月全国民主主義労働運動連絡会議(民労連)を結成した。このうち全繊同盟、海員、全映演は総評を脱退、全労会議結成大会を開いた。大会宣言は、反動資本の攻勢、左翼労働組合主義の双方に対決すると、反共産主義の立場を明らかにした。同時に51年左右に分裂した日本社会党の右派社会党、60年結成の民主社会党(のち民社党)と表裏一体の組合であった。
全労会議は近江絹糸(おうみけんし)スト(1954)を応援・指導したほか、日本製鋼所室蘭(むろらん)製作所(1954)、王子製紙(1958)、三井三池炭鉱(1959~60)などの争議中の組合の分裂・第二組合結成を指導した。全労会議は、その下部に同じく全国中央組織の総同盟を組織していたため、1962年4月全労会議と総同盟が加盟する形の全日本労働総同盟組合会議(同盟会議)に改組、64年11月全労会議、総同盟が一本化して全日本労働総同盟(同盟)を結成した。同盟は82年12月に中央労働組合連絡会議(中立労連)などとともに全日本民間労働組合協議会(全民労協)を結成した。その後87年11月、全民労協が全日本民間労働組合連合会に改組されたのをきっかけに同盟は解散、さらに89年(平成1)11月、全日本民間労働組合連合会は日本労働組合総評議会(総評)などと統合し、日本労働組合総連合会(連合)となった。
[松尾 洋]
『全労十年史編纂委員会編・刊『全労十年史』(1968)』