八木秀次(読み)やぎひでつぐ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「八木秀次」の意味・わかりやすい解説

八木秀次
やぎひでつぐ
(1886―1976)

電気通信工学者。大阪生まれ。1909年(明治42)東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、翌1910年、仙台高等工業学校教授に就任した。1913年(大正2)ヨーロッパ留学し、ドレスデン大学の電気工学者バルクハウゼンについてアーク振動などを研究、このことから短波通信関心をもった。帰国して、1919年に東北帝国大学教授となり、同大学に電気通信研究所を設立宇田新太郎とともに、短波長ビームに関する研究を行った。1926年(大正15)研究の成果を発表、「八木‐宇田空中線」「八木‐宇田アンテナ」として世界的に注目された。東北帝大時代の門下岡部金治郎らの通信工学者がいる。1931年(昭和6)大阪帝国大学理学部創設委員となり、1933年大阪帝大教授、1942年同大理学部長、のち東京工業大学学長、1944年技術院総裁、1946年大阪大学総長を歴任。この間、電気通信学会・電気学会会長を務めた。1956年文化勲章を受章した。

山崎俊雄


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「八木秀次」の解説

八木 秀次
ヤギ ヒデツグ


肩書
参院議員(緑風会),大阪大学総長,八木アンテナ社長

生年月日
明治19年1月28日

出身地
大阪府大阪市

学歴
東京帝大工科大学電気工学科〔明治42年〕卒

学位
工学博士〔大正9年〕

経歴
仙台高工教授を経て、大正2年欧米に留学、ドイツでは電気工学者のバルクハウゼン、英国ではフレミングに師事。帰国後、8年東北帝大工学部教授となり、同大に電気通信研究所を設立、宇田新太郎とともに短波長ビームに関する研究をし、15年“八木・宇田アンテナ”を開発、レーダーテレビなどに広く採用される。昭和7年大阪帝大理学部創設に尽力し、8年同大教授、17年理学部長に就任。同年東京工大学長、19年技術院総裁、21年大阪帝大総長、のち武蔵工業大学学長を歴任。一時右派社会党に属し、28年参院議員に当選。日本社会党顧問、民主社会主義連盟会長を兼務。また27年には八木アンテナ株式会社を設立、35年まで社長をつとめた。31年文化勲章受章。著書に「八木秀次随筆集」「技術人夜話」などがある。

受賞
文化勲章〔昭和31年〕

没年月日
昭和51年1月19日

資格
?本学士院会員〔昭和26年〕

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「八木秀次」の解説

八木 秀次
ヤギ ヒデツグ

大正・昭和期の電気通信工学者 大阪大学総長;八木アンテナ社長;参院議員(緑風会)。



生年
明治19(1886)年1月28日

没年
昭和51(1976)年1月19日

出身地
大阪府大阪市

学歴〔年〕
東京帝大工科大学電気工学科〔明治42年〕卒

学位〔年〕
工学博士〔大正9年〕

主な受賞名〔年〕
文化勲章〔昭和31年〕

経歴
仙台高工教授を経て、大正2年欧米に留学、ドイツでは電気工学者のバルクハウゼン、英国ではフレミングに師事。帰国後、8年東北帝大工学部教授となり、同大に電気通信研究所を設立、宇田新太郎とともに短波長ビームに関する研究をし、15年“八木・宇田アンテナ”を開発、レーダー、テレビなどに広く採用される。昭和7年大阪帝大理学部創設に尽力し、8年同大教授、17年理学部長に就任。同年東京工大学長、19年技術院総裁、21年大阪帝大総長、のち武蔵工業大学学長を歴任。一時右派社会党に属し、28年参院議員に当選。日本社会党顧問、民主社会主義連盟会長を兼務。また27年には八木アンテナ株式会社を設立、35年まで社長を務めた。31年文化勲章受章。著書に「八木秀次随筆集」「技術人夜話」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「八木秀次」の意味・わかりやすい解説

八木秀次【やぎひでつぐ】

電気工学者。大阪府生れ。東大卒。1926年東北大学で宇田新太郎とともに八木アンテナを発明。電波・電子工学を広範囲に研究,東京工大学長,技術院総裁,大阪大学総長,参議院議員等を歴任した。1956年文化勲章。
→関連項目岡部金次郎八木=宇田アンテナ

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「八木秀次」の解説

八木秀次 やぎ-ひでつぐ

1886-1976 大正-昭和時代の電気通信工学者。
明治19年1月28日生まれ。大正8年東北帝大教授となり,同大に電気通信研究所を設立。宇田新太郎とともに15年レーダー,テレビなどに使用される「八木-宇田アンテナ」を発明した。大阪帝大教授,東京工業大学長,技術院総裁,大阪帝大学長などを歴任。昭和28年参議院議員。31年文化勲章。昭和51年1月19日死去。89歳。大阪出身。東京帝大卒。
【格言など】研究者は教育者たるべし(信条)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八木秀次」の意味・わかりやすい解説

八木秀次
やぎひでつぐ

[生]1886.1.28. 大阪
[没]1976.1.19. 東京
電気工学者。東京大学電気工学科卒業 (1909) 後,仙台高等工業学校教授を経て,ドイツのドレスデン工科大学に留学。帰国後,東北大学工学部電気工学科教授 (19~31) 。 1926年に八木アンテナを発明,指向性超短波空中線方式,高周波光力変調方式など通信工学に業績が大きい。東京工業大学学長 (42~44) ,技術院総裁 (44) ,大阪大学学長 (46) などの要職を歴任。 56年文化勲章受章。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

367日誕生日大事典 「八木秀次」の解説

八木 秀次 (やぎ ひでつぐ)

生年月日:1886年1月28日
大正時代;昭和時代の電気通信工学者;政治家。大阪大学総長;八木アンテナ社長;参院議員
1976年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の八木秀次の言及

【電波】より

…20年ころより,ラジオ放送はアメリカやイギリスの各都市で始められ,急速に全世界に広がっていった。さらに25年にはイギリスのJ.L.ベアードがテレビの実験に成功し,26年にはイギリスでテレビの公開実験が行われ,また同じ年に八木秀次,宇田新太郎により八木・宇田アンテナが発明されるなど,今日のテレビ放送の基礎が築かれた。このように電波は,われわれの社会や生活を豊かにするのに大いに貢献している。…

【八木=宇田アンテナ】より

…八木秀次,宇田新太郎によって発明されたアンテナで,給電されたアンテナ素子の前後に無給電の導体棒を並べた形のものである。半波長より少し短い導体棒は電波をその方向に導くので導波器と呼ばれ前方に配列される。…

※「八木秀次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android