江戸幕府が初めて編纂(へんさん)した裁断判例集。「御定書百箇条」とも称せられる。上下2巻。上巻は81条、司法関係の触書(ふれがき)や諸例規を集め、下巻がいわゆる百箇条で、実際には103条からなり、500項目余りに分かれ、判例や慣習に基づいて、判決の基準となるべき条例を編纂したもので、刑事関係が過半を占めている。編纂の発端は1720年(享保5)8代将軍徳川吉宗(よしむね)が評定所(ひょうじょうしょ)に対し、各種犯罪者に対する量刑の基準をあらかじめ設定しておき、個々の判決に際しては罪の軽重を勘考して加減するように命じたことにあるといわれる。このときは町奉行(ぶぎょう)大岡忠相(ただすけ)が担当し、24年「享保度法律類寄(きょうほうどほうりつるいよせ)」という14類86条の法規集として呈出した。37年(元文2)に至り、改めて評定所に御定書編纂の命令が下り、勘定奉行杉岡能連(よしつれ)が主任となり、翌年上下2巻の原型が成立した。この年能連が死去したので、寺社奉行牧野貞通(さだみち)、町奉行石河政朝(いしこまさとも)、勘定奉行水野忠伸(ただのぶ)が担当し、条文ごとに将軍吉宗の意向を確かめつつ、42年(寛保2)に編纂を完了した。その後新判例や訂正を追加していったが、45年(延享2)に至ってこれをやめ、その後は原則として「例書」という形でまとめることとなった。また54年(宝暦4)から御定書編纂に関する諸記録文書類を各条文ごとに配列する編纂が開始せられ、1767年(明和4)に完成した。これを「科条類典」という。御定書は秘密文書とされ、奉行のほか他見を禁ずる旨老中松平乗邑(のりさと)の申渡しがあるが、とくに下巻は写本がかなり広く流布している。
御定書は判例や慣習の集成であって新法の制定ではないが、享保以前からの例を採用した項目は4分の1ほどで、他は享保期に発布または改訂をみたものである。ことに将軍吉宗の意向が反映しているとみられる箇所が多数あり、享保の改革において司法関係の制度上運用上の改善に当局者がいかに力を注いだかをしのばせるとともに、この時期の政治上の重要課題を法文の制定や改訂のなかに読み取ることができる。たとえば審理の促進(上42~47条)、追放の制限(上52条)、残酷な刑罰の緩和(上40条=縁坐(えんざ)の制限、下83条=拷問の制限)、時効の制定(下18条)、誤(謝)証文(あやまりじょうもん)強制徴取の禁止(下16条)などは司法制度の合理的または文治的改革である。また田畑永代売買の罰則緩和(下30条)や質地関係諸規則(上57条、下31・32条)、借金銀関係諸規則(下34~40条)などからは、金融や信用取引の繁雑化と農地関係の変動という時代の趨勢(すうせい)がうかがえる。さらに百姓一揆(いっき)の罰則の成文化、ことに1643年(寛永20)以来容認されていた領主・代官非法ある場合の逃散(ちょうさん)も処罰の対象としたこと(下28条)は、激化する農民の抵抗に寛容性を失った当局の姿勢が示されている。御定書はこの後の裁判に大きく影響し、条文に拘泥する弊を生ぜしめていったという。
[辻 達也]
『茎田佳寿子著『江戸幕府法の研究』(1980・巌南堂書店)』
江戸時代,8代将軍徳川吉宗が裁判,行政の準拠として編纂させた幕府の内規集。上下2巻から成り,主として裁判に関する幕府の基本法であった。編纂は老中松平乗邑(のりさと)のもとに寺社・町・勘定の三奉行を委員としておこなわれ,法律に関心の深かった吉宗自身の意見も随所に反映されている。1742年(寛保2)に一応でき上がり,奥書が書かれたので,一般にこの年を成立の時期とする。しかし編集は続行され,実質的に完成したのは翌年であり,その後も〈追加〉が54年(宝暦4)まで書き加えられている。なお本文に追加されなかった重要判例は,〈御定書に添候例書〉という追加別冊におさめられ,本文と同様の効力を有した。《公事方御定書》上巻は裁判,警察,行刑などに関する重要な法令81通をおさめた法規集である。下巻は若干の民事的規定,民刑事訴訟法的規定と,多数の刑法的規定をおさめ,103条から成るので俗に御定書百箇条ともいう。そこでは犯罪の構成要件とこれに対する刑罰が条文の形で書かれ,かつ民事的訴訟法的規定も一応条文化されているので,これを法典とみることもできる。しかし大部分の条項は判例を抽象化,法規化したものにすぎず,下巻の主たる部分は,実質的には判例法であった。とはいえ後になると,《公事方御定書》下巻は幕府内外で法典として扱われる傾向を生じた。《公事方御定書》は公布されたものではなく,三奉行およびこれに準ずる大坂城代,所司代以外他見を許されない,部外秘の執務規則ないし内規集であった。これは〈民は由(よ)らしむべし,知らしむべからず〉という儒教的政治観から,政務について人民に知らせず,それによって幕府の威厳を保ち,かつ人民を畏怖せしめて犯罪を防止せんとしたためである。しかしその秘密性はやがて有名無実となり,写本が幕府外にも伝わって,諸藩の法制に大きな影響を与えた。《公事方御定書》を模範とした藩法典も,福井藩,松代藩,福山藩など数藩で編纂されている。
執筆者:林 由紀子
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江戸幕府の,主として庶民を対象とする基本法典。2巻。明律・清律など中国法の影響をうけて8代将軍徳川吉宗が編纂を計画・推進した。上巻は重要法令を収めた法令集,下巻は判例・取決めなどからなる判例法・法曹法。実質的な編纂事業が開始されたのは元文年間で,牧野貞通・石河政朝・水野忠伸,のちには大岡忠相(ただすけ)ら三奉行クラスらが編纂にあたった。1742年(寛保2)に完成したが,その後も「追加」の名で引き続き改訂され,54年(宝暦4)上巻81条,下巻103条からなる法文が最終的に確定した。下巻は俗に「御定書百箇条」ともいう。1841年(天保12)勘定奉行所は「棠蔭(とういん)秘鑑」とよばれる本書の校正本を作成した。
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…《公事方御定書》(1742)の立法史料集。《公事方御定書》編集のときの諸記録,文書類は評定所に数十冊存したが,年を経て散逸するおそれがあり,また評定所一座が老中から《公事方御定書》各条の意味について下問されたとき,その立法過程にさかのぼって答申するためにも整理・編集する必要があった。…
…無礼におよんだ庶民を切害すること,すなわち無礼討の許容である。諸藩でも認められたが,幕府は《公事方御定書》の殺人・傷害の条項中に先例を成文化し,町人・百姓が法外の雑言など不届きな行為に出た場合,やむをえずこれを切り殺した武士は,たとえ足軽などの軽輩であれ,刑事責任なきものとした。事情分明でなければならず,したがって目撃者の存在は欠かせなかった。…
…訴訟としての公事は戦国大名において一般的に用いられ,さらに江戸幕府では公事といえば訴訟をまず意味するようになった。〈公事方〉とは訴訟を取り扱う裁判機関を意味し,《公事方御定書》と呼ばれる訴訟・裁判にかかわる法令や手続の書物も編集された。【五味 文彦】。…
…大宝律令および養老律令は,その時代としては整った刑事手続を定めていた。その後,検非違使(けびいし)庁の設置(9世紀)など,独自の発展も見られ,江戸時代に至ると,御定書(おさだめがき)百箇条(公事方御定書)に代表されるような法制化が行われた。もっともそれは,いわゆるお白洲裁判であり,また拷問も認められ,被告人の権利という観念からはほど遠かった。…
…江戸幕府の初期も同様で,しかも切支丹信徒迫害のため,〈逆磔(さかさはりつけ)〉〈水磔〉〈牛割(うしざき)〉等の過酷な刑罰が行われた。しかしときとともに幕府の刑罰は残虐さを減じ,将軍徳川吉宗に至って刑罰は大いに改革され,これが《公事方御定書》(1742)に定着した。幕府の刑罰は原則として公刑罰であったが,例外的に私的刑罰権も認められ,切捨御免,敵討,妻敵討(めがたきうち),妻の不義に対する夫の成敗権等が存した。…
…【中森 喜彦】
[江戸時代の〈かたり〉と刑罰]
人を錯誤におとしいれて財物を騙取する行為およびその行為者を,〈かたり(騙り,衒り,語り)〉と称した。《公事方御定書》(1742制定)では,〈当座のかたり〉(通常の,その場かぎりのもの)は盗罪に準じて贓物(ぞうぶつ)10両以上を死罪,未満を入墨敲(たたき)とし,公儀に対するものや計画的なもの,仲間を誘い共謀して行ったものについては同1両以上を死罪,また常習的なものは贓物の高にかかわらず獄門としている。〈かたり〉の手段として一定の物の偽造・変造やその行使,官職・身分の詐称等をともなうことがあるが,《公事方御定書》には,〈謀書謀判〉(文書偽造,印章偽造)は引回しのうえ獄門,〈似せ金銀〉(通貨偽造)は引回しのうえ磔(はりつけ),〈似せ秤,似せ桝〉は引回しのうえ獄門,〈似せ朱墨〉は家財取上げ所払,〈似せ薬種〉は引回しのうえ死罪,〈似せ役〉(官名等の詐称)は死罪,〈似せ家主,五人組〉をつくって出訴するものは敲(たたき),名を替えて奉公人の請(うけ)に立つものは江戸十里四方追放などとする規定がみえる。…
…はじめ司法卿大木喬任の命で司法属菊地駿助が,その死後は司法大臣官房庶務課が編纂を担当し,1878年から95年にかけて出版された。前聚6冊,後聚4冊から成り,前聚は幕府の法令を分類収録し,後聚は《公事方御定書》編纂に関する諸資料を幕府が一書にまとめた《科条類典》の各条に関係判例等を付加したほか,《御定書ニ添候例書》《赦律》などの刑事史料を収めている。本書には,当時司法省に所蔵されていた幕府伝来の記録類のように,その後焼失した史料なども入っており,また幕府官撰法令集たる《御触書集成》に欠けている幕末の法令も収集されていて,江戸時代研究の基本史料である。…
…そこで36年(元文1)通貨を悪鋳(元文金銀),増発して不況を緩和し,翌年老中松平乗邑(のりさと)を財政専任に,神尾春央(かんおはるひで)を勘定奉行に登用して再び財政強化をはかり,その後しばらく安定した状態となった。吉宗は司法制度にも関心をよせ,裁判の公正化・迅速化や残酷な刑罰の改廃をはかり,42年(寛保2)の《公事方御定書》その他法典の編纂をはじめて公的に行わせた。吉宗はまた和漢の法制の研究や古典・古文書の収集など実用的・実証的学問に興味を示し,とくにオランダ人を通じてヨーロッパの学術知識の吸収をはかり,1720年には漢訳洋書の輸入制限を緩和した。…
…藩の制定法,判例法などで現在紹介されているものには,例えば次のようなものがある。(1)刑法典 藩制定法の多くは単行法令の形で出されたものであったが,幕府における《公事方御定書(くじかたおさだめがき)》の制定が刺激となって,いわゆる藩刑法典を編纂した藩も少なくなかった。これには《公事方御定書》を模倣した御定書系のものと,中国法を移入した明律(みんりつ)系のものとの2種類がある。…
※「公事方御定書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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