江戸中期の幕臣,政治家。幼名は求馬,のち市十郎,忠右衛門。先祖は徳川氏三河以来の譜代。忠高の第4子。1686年(貞享3)同姓の忠真の養子となる。93年(元禄6)実兄が八丈島に流罪,96年一族の忠英(書院番)が番頭を殺害してみずからも死ぬという事件が起き,彼の一族とともに連座するという不幸にあうが,以降は順調であった。すなわち1700年に養父の遺跡1920石を継ぎ,02年書院番,04年(宝永1)徒頭,07年使番,08年目付を経て12年(正徳2)山田奉行となり,従五位下能登守となる。16年(享保1)普請奉行に転じ,17年2月3日町奉行に昇進,越前守と改める。22年関東地方御用掛を命じられ,45年(延享2)までこの職を兼務する。1736年(元文1)8月12日寺社奉行に栄進,48年(寛延1)閏10月1日奏者番を兼ねる。このとき1725年の2000石,36年の2000石との2度の加増に,さらに4080石を加えて都合1万石の大名となり,三河国額田郡西大平(現,愛知県岡崎市)に陣屋をおく。51年(宝暦1)11月2日病のため寺社奉行,奏者番両職の辞任を申し出たが,寺社奉行のみ許された。同年12月19日没。法名は松運院興誉仁山崇義大居士。同家本貫の地である相模国高座郡堤村(現,神奈川県茅ヶ崎市堤)の浄見寺に葬られた。
彼は1717年41歳で町奉行となり,以降36年60歳までの約20年間この職にあり,その後75歳で死亡するまでの約16年間は寺社奉行という,いわば幕府にあって実質上もっとも重要なポストを占め,それら両ポストに付属する役務としての評定所一座の座を都合35年占めている。つまり徳川吉宗政権の全期間のみならず,つぎの家重政権下にあっても死ぬまでその地位を保っている。このことは彼が並々ならぬ有能かつ誠実な実務官僚であったことを示しており,その業績も多大である。そのなかでもっとも充実した40歳から60歳という年齢を過ごした町奉行時代の業績は抜群である。
それを要約すると江戸市民生活安定のための努力ということになろう。彼は職につくや両替商ら当時の日本の金融界を握っていた巨大商業資本の猛烈な抵抗をうけながら,安価で豊富な商品の江戸流入をめざして努力した。元文の貨幣改鋳(元文金銀)も彼の発議により,彼みずからの指揮のもとで,この目的のために実施したものである。また彼は物価問題はまずなによりも流通問題であるとして,流通界を問屋-仲買-小売という各段階ごとに組織し(日本的流通組織の確立),江戸市民を火災から守るために,町火消〈いろは四十七組〉をつくり,火災時の避難用地としての空地造りとその管理に力をいれた。また板ぶきの屋根を瓦ぶきにするなど,その不燃化に力をいれた。そのほか江戸下層社会の貧窮者を救うために小石川養生所をつくった。彼は日本歴史でもまれにみる有能な実務官僚であったが,有名な〈大岡政談〉の話は実際の彼とはほとんど関係がなく,政治家とはかくあれかしという庶民の願望が託された架空譚である。
→大岡政談物
執筆者:大石 慎三郎
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江戸中期の幕府行政官。幼名求馬(もとめ)、のち市十郎、忠右衛門。旗本大岡忠高(2700石)の四男、同族忠真(ただざね)(1920石)の養子となる。1702年(元禄15)書院番士に任ぜられ、順調に昇進して12年(正徳2)山田奉行(ぶぎょう)となり、従(じゅ)五位下能登守(のとのかみ)に叙任。俗説ではここで当時の紀州藩主、後の8代将軍徳川吉宗(よしむね)に認められたというが疑わしい。16年(享保1)江戸に戻って普請(ふしん)奉行、翌17年町奉行に登用され、越前守(えちぜんのかみ)に改める。36年(元文1)旗本としてはまったく異例な寺社奉行に昇進、ついで奏者番(そうじゃばん)を兼ね、三河国西大平(にしおおひら)(愛知県岡崎市)に陣屋をもつ1万石の大名となる。
忠相は名奉行として講談、落語、演劇などで有名であるが、その名裁判物語はほとんど彼の事績とは関係なく、中国やインドの故事、あるいは忠相以外の奉行の逸話などが彼の事績として集積、脚色されたものである。しかし忠相はその昇進の早さからみて、すでに吉宗以前からその才腕が認められていたと考えられる。享保(きょうほう)期(1716~36)の司法面の改革においても、審理の促進、公正化などに重要な役割を演じたばかりでなく、100万都市に膨張した江戸の行政官としても、防火、救貧、風俗問題や物価対策などと取り組み、さらに1722年から45年(延享2)まで地方(じかた)御用掛を兼務し、関東地方の幕領の経営や開発、治水工事などに尽力した。彼の性格は、逸話などでは機知に富み、人情味あふれた人物として描出されているが、その日記などを通じて推測するに、きわめてきちょうめんで勤勉かつ誠実な人物であったことが想像できる。また、その配下に国学者加藤枝直(えなお)、蘭学者(らんがくしゃ)青木昆陽(こんよう)、数学者野田文蔵、農政功者田中丘隅(きゅうぐ)、簑(みの)正高など多方面の識者を抱えていたことも注意を要する。宝暦(ほうれき)元年12月19日没。相模(さがみ)国高座(こうざ)郡堤村(神奈川県茅ヶ崎(ちがさき)市)浄見寺に葬られる。
[辻 達也]
『辻達也著『大岡越前守』(中公新書)』
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(大石学)
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1677~1751.12.19
享保の改革期の町奉行。越前守。父は忠高。1920石取の旗本大岡忠真(ただざね)の養子。1700年(元禄13)家督相続。書院番・御徒頭・使番(つかいばん)・目付・山田奉行・普請奉行を勤め,17年(享保2)8代将軍徳川吉宗によって町奉行に抜擢された。吉宗の享保の改革の実務を担当し,商人の仲間・組合の公認,町火消制度の創設,小石川養生所の設置など,江戸の経済・都市政策を実施。22年から24年間,関東地方御用掛を兼ね,地方巧者田中丘隅(きゅうぐ)らを用いて,酒匂(さかわ)川の治水工事や武蔵野新田の開発などを指揮。36年(元文元)寺社奉行に昇進し,48年(寛延元)奏者番を兼ね,三河国西大平藩1万石の大名となった。
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…歌舞伎,講談,人情噺,浪花節などで江戸南町奉行大岡越前守が登場する作品群をいう。大岡忠相は,享保年間(1716‐36)に町奉行をつとめ,名奉行の聞こえ高かった人物。幕末から明治にかけて実録本《大岡仁政録》その他の読物から,講談,人情噺が創作され,大岡越前守にはまるで関係のない物語(たとえば天一坊事件は大岡越前守ではなく,伊奈半左衛門が審議をした)もすべて大岡越前守の裁判として,膨大な作品群を形成するに至った。…
…大岡忠相の寺社奉行時代の日記。忠相自身がしたためたとされる〈自筆本〉が59冊,右筆が清書したとされる〈書写本〉が115冊ある。…
…第3期(1736‐45)は36年(元文1)5月元文金銀新鋳という貨幣政策転換を画期とし,37年勝手掛老中松平乗邑(のりさと),勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)が登場し年貢増徴にあたった時期で,45年9月吉宗退隠,10月吉宗の内意もあり新将軍家重に乗邑が罷免されて終わる。
[法制整備と文化・社会政策]
幕府の行政・司法は主として慣習や不文律で行われてきたが,42年(寛保2)評定所が判例を集め修正増補し《公事方(くじかた)御定書》,44年(延享1)幕府法令を類別編集し《御触書寛保集成》を編纂,町奉行所では大岡忠相(ただすけ)らが関係法令を集め立法過程を含め《享保撰要類集》を作った。御触書集成,撰要類集はこれが例となって以後編纂が続けられた。…
…しかし町方の自衛消防組織である火消組合の設立は容易に進まなかった。1718年町奉行大岡忠相(ただすけ)は,各町名主が火消組合の組織化が防火対策の第一であると答申したことにもとづき,各町名主に町火消設置を命じ,出火の際は風上2町,風脇左右2町,計6町が1町30名ずつの人足を出し,消火に当たることとしたのである。しかしこの火消組合の地域割が適切でなく消防の効率も悪いという理由で,20年あらためて編成替えが行われた。…
※「大岡忠相」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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