内田五観(読み)ウチダイツミ

デジタル大辞泉 「内田五観」の意味・読み・例文・類語

うちだ‐いつみ【内田五観】

[1805~1882]幕末明治初期の数学者江戸の人。通称、恭。日下誠くさかまこと高野長英数学蘭学を学ぶ。明治政府に仕えて太陽暦採用貢献。著「古今算鑑」など。

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精選版 日本国語大辞典 「内田五観」の意味・読み・例文・類語

うちだ‐いつみ【内田五観】

  1. 幕末、明治の数学者、暦学者。江戸の人。名は「いづみ」とも。本姓宮野。通称彌太郎。日下(くさか)誠に関流和算学を学ぶ。維新後、新政府に仕え、太陽暦の制定従事主著「古今算鑑」。文化二~明治一五年(一八〇五‐八二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「内田五観」の意味・わかりやすい解説

内田五観(うちだいずみ)
うちだいずみ
(1805―1882)

幕末から明治初期の数学者。1873年(明治6)の太陽暦採用の任にあたる。通称は恭、のちに弥太郎、字(あざな)は思敬、観斎あるいは宇宙堂を号した。数学を日下誠(くさかまこと)(1764―1839)に習い、関流宗統六伝を受ける。内田は瑪得瑪弟加(マテマテカ)と名づけた塾を開き、多数の弟子を養成した。蘭学(らんがく)を高野長英(ちょうえい)から習い、西洋の知識を吸収した。内田の塾の名で出版した数学書は『古今算鑑』(内田五観著・1832)、『算法開蘊(かいうん)』(剣持章行(けんもちあきゆき)著・1849)など数多くある。また、和田寧(やすし)(1787―1840)のつくった定積分表を『円理闡微表(せんびひょう)』と題してまとめている。明治維新後は、大学助教、文部省出仕、天文局督務その他を歴任し、東京学士会院会員となる。弟子に、剣持章行(1790―1871)、法道寺善(ほうどうじよし)(1820―1868)、桑本正明(1830―1863)、竹内修敬(1815―1874)、その他多数の数学者がいる。

下平和夫]


内田五観(うちだいつみ)
うちだいつみ

内田五観

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改訂新版 世界大百科事典 「内田五観」の意味・わかりやすい解説

内田五観 (うちだいづみ)
生没年:1805-82(文化2-明治15)

幕末から明治初期にかけての数学者,暦学者。通称弥太郎,観(よくみ)または五観といい,字は思敬,号は観斎またはうちだをもじって宇宙堂という。日下誠に数学を習う。高野長英に洋学を学ぶ。内田は数学ばかりでなく天文・地理測量・蘭学にも通じ,自分の塾を瑪得瑪第加,すなわちマテマテカと称して,多くの子弟を養成するとともに,多数の数学書を自分自身および弟子たちのために出版した。内田の《古今算鑑》(1832)は,各地の弟子が奉納した算額の問題を集めて一書としたものである。難問が多いので有名である。内田は種々のサイクロイドの研究を広め,和田寧から授けられた定積表,すなわち円理表を《円理豁術(えんりかつじゆつ)》にまとめ,弟子に授けた。明治維新後は星学局に入り,編暦の仕事に従事した。1873年の太陽暦採用の主役を務めた。79年に東京学士会院会員となる。
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朝日日本歴史人物事典 「内田五観」の解説

内田五観

没年:明治15.3.29(1882)
生年:文化2(1805)
幕末明治期の関流和算の大家。天文,暦学,測量にも詳しく明治の太陽暦改暦に大きく貢献した。通称弥太郎,字は思敬またウチダの音から宇宙堂ともいった。幕臣の養子で江戸に住んだ。算学の師,日下誠は「穎悟精敏にして衆技に通暁す。初めて数を我に学びしは,時に年甫めて十一,儕輩中嶄然としてすでに頭角を見わす,未だ弱冠にして,其隠微を窮む。弟子多くこれを慕う。余もまた才子の出門を喜び,意に関氏宗統之訣を悉くこれに属せしむ」と称揚している。瑪得瑪第加(マテマチカ)という家塾を開き,多くの門人を抱え,高野長英とも親交があった。幕府崩壊後の明治3(1870)年大学出仕天文暦道御用掛,星学局取締督務。同4年大学助教,文部省出仕,天文局督務となり,もっぱら太陽暦改暦(明治5年採用)の作業に当たった。明治12年東京学士会院会員となる。『古今算鑑』ほか著書は多い。

(内田正男)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「内田五観」の意味・わかりやすい解説

内田五観
うちだいつみ

[生]文化2(1805).3. 江戸
[没]1882.3.29. 東京
幕末,明治初期の和算家。通称弥太郎,字は思敬,観斎と号した。本姓宮野,幕臣内田氏の養子となる。 11歳で日下誠の門に入り,18歳で関流の皆伝を授けられ,関流宗統6伝についた。高野長英に蘭学を学び,西洋天文学も吸収した。化政期から天保期にかけては,和算も最盛期にあり,和算は秘密主義から脱出し,多数の算書が出版された。この時期に内田は長谷川寛とともに多くの門下生を出した。代表的な著書に,和田寧の円理表を取入れた『円理闡微表』 (5巻) ,『古今算鑑』がある。弟子の名で出たものにも,内田五観閲として手を加えたものが多い。明治になると天文局に入り,1873年の太陽暦採用の主役を務めた。弟子のうちで著名なのは法道寺善 (1820~68) で,彼の研究のなかに,反形法 Inversionの理論に相当する算変法がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「内田五観」の解説

内田五観 うちだ-いつみ

1805-1882 江戸後期-明治時代の和算家,暦算家。
文化2年3月生まれ。日下誠に和算,高野長英に蘭学をまなぶ。家塾を瑪得瑪弟加(マテマテカ)塾,詳証館と名づけた。明治4年天文局督務となり,太陽暦への改暦事業にあたった。12年東京学士会院会員。明治15年3月29日死去。78歳。江戸出身。本姓は宮野。名ははじめ恭,観。字(あざな)は思敬。通称は弥太郎。号は観斎,宇宙堂。編著に「古今算鑑」など。

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世界大百科事典(旧版)内の内田五観の言及

【円理】より

…これらの積分表を円理豁術あるいは円理表という。内田五観は和田寧から円理表を教わり,これらを整理しなおして,《円理闡微表》にまとめ,弟子に配布した。内田によって円理表は広く行き渡った。…

【和算】より


[幕末の和算]
 安島直円の弟子日下(くさか)誠(1764‐1839)は,多くの数学者を育てた。和田寧(1787‐1840),長谷川寛(1782‐1838),内田五観(1805‐82)らである。和田は数多くの定積分表を作製し,それを弟子に与えた。…

※「内田五観」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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