内藤伸(読み)ナイトウ シン

20世紀日本人名事典 「内藤伸」の解説

内藤 伸
ナイトウ シン

大正・昭和期の彫刻家



生年
明治15(1882)年10月1日

没年
昭和42(1967)年8月21日

出生地
島根県飯石郡吉田村

別名
号=山上

学歴〔年〕
東京美術学校彫刻科選科〔明治37年〕卒

主な受賞名〔年〕
松江市名誉市民〔昭和38年〕

経歴
明治41年第2回文展で「安住迷想」が初入選。平櫛田中らが結成した日本彫刻会第4回展(大正元年)に「藤原時代の女児」、第5回展に「木の実」などを出品。3年再興日本美術院第1回展に「独房」などを出品、平櫛らとともに同人に推された。6年まで院展に出品、8年退会。9年第2回帝展の審査員、昭和2年帝国美術院会員。4年日本木彫会を創立して主宰した。33年日展顧問。36年木彫会を解散。代表作に「芳醇」「光明皇后」「防人」など。第2次大戦で故郷疎開、38年松江市名誉市民に推された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「内藤伸」の意味・わかりやすい解説

内藤伸
ないとうしん
(1882―1967)

彫刻家。島根県飯石(いいし)郡吉田村(現、雲南(うんなん)市)に生まれる。幼時から松江市の商家に育ったが、彫刻家を志して上京し、高村光雲(こううん)に師事した。1904年(明治37)東京美術学校彫刻科選科を卒業、08年第2回文展に『安住と迷想』が初入選し、文展に出品したが、14年(大正3)再興日本美術院第1回展に『独房』ほかを出品して同人に推挙された。19年に院展同人を辞退して以来、帝展に出品、第二次世界大戦後の日展に至るまで官展系木彫作家として指導的役割を果たした。27年(昭和2)帝国美術院会員に推され、31年には日本木彫会を創立している。代表作に『山上』『獅子(しし)』などがある。

三木多聞

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「内藤伸」の解説

内藤伸 ないとう-しん

1882-1967 大正-昭和時代の彫刻家。
明治15年10月1日生まれ。高村光雲に師事する。帝展審査委員をつとめ,昭和2年帝国美術院会員。6年日本木彫会を創立,主宰。一刀ごとに気合いをこめる「気刀彫」の彫法を創案した。昭和42年8月21日死去。84歳。島根県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。旧姓渡部。号は山上居。作品に「山上」「獅子」「光明皇后」など。
【格言など】大山は遠く嶺のみ見えそめぬ小山ひとつをいま登り来て(歌集「山並」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の内藤伸の言及

【明治・大正時代美術】より

…彫塑の朝倉文夫,建畠大夢(たてはたたいむ)(1880‐1942),堀進二,池田勇八(1886‐1963),大理石彫の北村四海らがあげられるが,これらのなかでは朝倉文夫が傑出しており,《墓守》(1910),《いづみ》(1914)のように,的確な自然主義の作品を残した。 再興日本美術院には,平櫛田中,佐藤朝山(1888‐1963),内藤伸(1882‐1967),吉田白嶺(1871‐1942)の4人の木彫家で彫刻部が新設された。荻原守衛の影響と近代彫刻の本質に迫ろうとの試みは,ここに拠った藤井浩祐(こうゆう)(1882‐1958),戸張孤雁,石井鶴三,中原悌二郎,保田竜門(やすだりゆうもん)(1891‐1965)らに現れて高い水準を示し,官展に対抗しうる力を発揮した。…

※「内藤伸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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