四円寺(読み)しえんじ

日本歴史地名大系 「四円寺」の解説

四円寺
しえんじ

平安時代中期に、平安京外北西部のならびヶ丘北東部一帯、現京都市右京区に建立された、円の字を冠した四つの御願寺総称。永観元年(九八三)円融天皇建立の円融えんゆう寺、長徳四年(九九八)一条天皇による円教えんきよう寺、天喜三年(一〇五五)後朱雀天皇発願後冷泉天皇により完成をみた円乗えんじよう寺、延久二年(一〇七〇)三条天皇御願により建立に着手した円宗えんしゆう寺である。この地の近くには寛平元年(八八九)宇多天皇により落成した御室おむろ仁和寺があり、その院家として建立されたらしく、いずれも当初は天皇の後院的性格をもち、のちには近くに陵を造築、墓守としての意味をもつ寺院ともなっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「四円寺」の意味・わかりやすい解説

四円寺
しえんじ

京都市右京区仁和寺(にんなじ)の近傍にあった円融寺(えんゆうじ)、円教寺(えんぎょうじ)、円乗寺(えんじょうじ)、円宗寺(えんしゅうじ)の「円」の字を冠した四つの寺の称。円融寺は円融院ともいい、983年(永観1)円融天皇により、円教寺は998年(長徳4)一条(いちじょう)天皇により建立され、1055年(天喜3)後朱雀(ごすざく)天皇のために円乗寺が営まれ、1070年(延久2)後三条(ごさんじょう)天皇の勅願により円明寺(えんみょうじ)が供養され、翌年円宗寺と改称された。いずれも仁和寺別当の下にあって勅願寺として建立されたもので、天皇の遺骨を安置して天皇、皇族の参詣(さんけい)供養を受けることなどが多く、堂塔も完備して法会も毎年盛大に行われた。とりわけ円宗寺の法華会(ほっけえ)、最勝会(さいしょうえ)は法勝寺の大乗会(だいじょうえ)とあわせて天台の三会(さんえ)とよばれて繁栄したが、仁和寺別当が円仁(えんにん)の門下から真言宗僧になるとともにしだいにその宗に帰し、中世以降仁和寺の興廃と命運をともにし、室町末期の応仁(おうにん)の乱に山名氏の兵火によってほとんど廃絶した。現在は円宗寺林などにその名を残すのみで、旧寺名を冠した廃寺址(し)が認められるにすぎない。四円寺の円融、円教、円乗、円宗(初め円明)はいずれも円満なる教法の意で、大乗なかんずく天台、華厳(けごん)などの教えをさすが、別当が空海門下になるにつれ真言密教をさしたと思われ、仏像、法会などは密教によって造顕、執行された。

[若林隆光]

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改訂新版 世界大百科事典 「四円寺」の意味・わかりやすい解説

四円寺 (しえんじ)

平安時代に,現在の京都市右京区竜安寺の付近にあった四つの御願寺(ごがんじ)の総称。いずれも仁和寺(にんなじ)の子院で,天皇の後院(ごいん)として営まれた。仁和寺に深く帰依した円融天皇が983年(永観1)に御願寺とした円融寺をはじめとして,998年(長徳4)一条天皇御願の円教寺,後朱雀天皇の御願で,後冷泉天皇により1055年(天喜3)に完成した円乗寺,70年(延久2)後三条天皇御願の円宗寺(初め円明寺と称す)である。円宗寺では,国家の仏事として法華会,最勝会が行われ,のち法勝寺大乗会とともに北京三会(ほつきようさんえ)と呼ばれた。四円寺は,院政期に建立された六勝寺の先例といえる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「四円寺」の意味・わかりやすい解説

四円寺
しえんじ

平安時代に皇室の御願寺として京都の仁和寺の近くに建てられ,名称に「円」の字をもつ寺のこと。円融寺,円教寺,円乗寺,円宗寺。

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