改訂新版 世界大百科事典 「出雲のお国」の意味・わかりやすい解説
出雲のお国 (いずものおくに)
歌舞伎の始祖とされる安土桃山時代の女性芸能者。生没年不詳。於国,阿国,国,郡,久仁,おくに,くになど,さまざまに記されている。お国の出自や経歴については,確実な資料がまったくない。巷説では出雲大社の巫女(みこ)とされているが,地方から京に上った歩き巫女の一人であったとする説や,洛北出雲路河原の時宗鉦打聖の娘との説もある。江戸時代を通してさまざまに伝えられてきたお国伝説の集大成ともいうべき《出雲阿国伝》によれば,お国は出雲国杵築の鍛冶職中村三右衛門の娘で,永禄(1558-70)のころ出雲大社修覆勧進のために諸国を巡回したところ,容貌美麗で神楽舞に妙を得ていたので評判となり,京に上って歌舞伎踊を考案し,織田信長や豊臣秀吉,越前中納言秀康などに召し出されて寵愛されたということになっている。確実な資料にとにかく〈国〉の名が出るのは,1600年(慶長5)京都近衛殿において〈クニ〉と〈菊〉という2人が雲州(出雲国)のややこ踊を演じたとあるのが最初である(《時慶卿記》)。次に,03年4月には〈出雲国神子女〉国が,当時流行の男伊達風の男装をして茶屋遊びの様子をまねて〈カフキ躍(おどり)〉をし,京中の人気を集めたという記録がある(《当代記》)。この二つを結びつければ,お国がややこ踊から歌舞伎踊を考案してその始祖となったということになる。この後お国は歌舞伎踊の一座を率いて,北野社頭や四条河原で勧進興行を行い,女院の御所や公家の邸にもしばしば招かれている。
また,歌舞伎成立当時の舞台の様子を伝えるといわれる《かぶきのさうし》(《歌舞伎草子》)では,当代のかぶき者(伊達男)名古屋山三郎が生前お国の歌舞伎踊を好んでいたが,お国を慕って亡霊となってあらわれ,お国とともに歌舞伎踊を踊るという話が作られている。03年に若くして刃傷沙汰のために非業の死を遂げた名古屋山三郎は,史実としてお国とはまったく関係のない人物であったが,異風な男装で歌舞伎踊をしたお国と密着することになり,さまざまに潤色され,多くのお国山三説話を生むことになった。名古屋山三郎はお国に情を通じた夫ということになり,山三郎が歌舞伎踊を考案してお国に教えたとか,2人で歌舞伎踊を創始して全国に広めたなどと説かれている(《懐橘談》《雍州府志》など)。慶長末年にはお国が桑名や江戸城中で勧進興行を行ったと伝える資料があり,北野社家の記録にも再び〈国〉の名があらわれるようになり,御所や公家の邸にしばしばかぶきが招かれるようになるが,これらが出雲のお国と同一人物であるかどうかは確かめえず,2代目お国を想定する説もある。晩年の動静についてもまったく不明で,07年小田原で没したとも,故郷出雲に帰って尼となって智月と号し,連歌を楽しみ,22年(元和8)7月13日75歳で没したとも,長命を保って87歳で没したとも伝えられている。
→お国歌舞伎
執筆者:鳥居 フミ子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報