切田村(読み)きりだむら

日本歴史地名大系 「切田村」の解説

切田村
きりだむら

[現在地名]十和田市切田

切田山一帯からさらに月日がつぴ山を背に北東に広がる大沼平おおぬまたいの高原の西の果て、切田川が貫流する高燥な台地に位置する。東は藤島ふじしま村、南は米田まいた村・滝沢たきさわ村・大不動おおふどう村、西は沢田さわだ村・奥瀬おくせ(現上北郡十和田湖町)と接する。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に切田村、一三一石余とみえ、同年の郷村帳では高一三一・五八三石のうち一〇一・〇八七石が畑である。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には蔵分一・一石余、給分四五二・二石余とある。家数は一五四、うち支村向切田むかいきりだ一〇、橋切はしきり三、横道よこみち四、半在家はんざいけ六、久保くぼ五、寺地てらち四、二森ふたつもり四、滝沢九、関口せきぐち五、程野ほどの一一、鍬台二、豊川とよかわ五、夏間木なつまぎ一五、中屋敷なかやしき八、見(見世か)六、上館かみだて一〇、谷地やち三、外之沢そとのさわ一二。馬四三三疋を飼養した。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数一一一で、支村に向切田・橋場はしば横道・半在家・久保・外ノ沢・滝沢・西滝沢・二ッ森ふたっもり・寺地・関口・程野・豊川・夏間木・中屋敷見世みせ・上館・谷地がある。


切田村
きつたむら

[現在地名]荒川町切田

高坪たかつぼ山から北西へ伸びる支峰先端にあり、南は蒲原かんばら郡切田村(現北蒲原郡黒川村)、東は梨木なしのき村に接する。西方蔵王ざおう川、東方を梨ノ木川が流れる。蒲原郡の切田村は上切田かみきつた、当村は下切田とよばれた。元徳三年(一三三一)六月五日の海老名忠顕和与状(三浦和田氏文書)には奥山おくやま庄内として「切田名」がみえる(北蒲原郡黒川村の→切田村。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「色部分きつた村 □□□ 下」とみえ、本納一一石二斗・縄高五一石八斗、家四軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領。元和五年(一六一九)の堀主膳宛堀直寄知行宛行目録(新潟大学蔵)では、黒川組の切田村三一石五斗五升が宛行われている。


切田村
きつたむら

[現在地名]黒川村切田

高坪たかつぼ山から北西へ延びる支峰先端にあり、北は岩船郡切田村(現荒川町)、南は近江新おうみしん村、東は蔵王ざおう村に接する。元徳三年(一三三一)六月五日の海老名忠顕和与状(三浦和田氏文書)奥山おくやま庄内として「切田名」とみえ、忠顕と和田(黒川)茂実の和与の際折中され、本田二千束苅・余田三千束苅が茂実へ渡された。また村上むらかみ(現中条町)の東堺が同名に設定されている。延文四年(一三五九)六月一三日の黒川応寸(茂実)譲状(同文書)では「きつた・しおさわ」が一期を限って子時実の母に譲られ、その死後は時実の知行と決められた。


切田村
きりたむら

[現在地名]黒瀬町切田

兼広かねひろ村の西に位置し、北は大多田おおただ村より続く丘陵性の山地、南は南西流する黒瀬川を挟んで市飯田いちいだ村に対する。「芸藩通志」に「もと霧多村と書しといへど、仮字なるべし。慶長中よりの文書皆切田村と見ゆ」と記す。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳に高一五五石とあり、「芸藩通志」には田畝一七町一段四畝余とあり石高の変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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