赤石村(読み)あかいしむら

日本歴史地名大系 「赤石村」の解説

赤石村
あかいしむら

[現在地名]前津江村赤石

現前津江村域の南東部を占め、赤石川流域の赤石本村あかいしほんむら川原こうばる堂尾どうの桑木くわぎ崩の平くえのひら日向ひむきかしら虫秋むしあきおよびこれらと離れたはやし曾家ぞけなどの集落が営まれる。虫秋を南に行くと渡神とかみ岳の東で石建いしだて峠、同じく曾家から南に向かうと曾家峠がある。慶長三年(一五九八)八月一五日の戸倉友重知行宛行状案(毛利高棟文書)に「津江谷赤石」とみえ、毛利高政が同所など二〇〇石を森織部に加増分として宛行っている。


赤石村
あかいしむら

[現在地名]鰺ヶ沢町赤石町

日本海沿岸を走る街道に沿い、赤石川河口東岸にある。東は鰺ヶ沢町、西は姥袋うばふくろ村支村牛島うしじま、南は日照田ひてりた村に接する。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「赤石」とある。同一〇年大浦信濃守為則が「家臣津島筑後を西浜赤石へ移し、村落を取立数年の内七百余の新田を開く」とある(津軽歴代記類)。「西津軽郡史」によれば、村名の由来は、赤石川下流に赤色の大石があった、開村者が明石あかし(現兵庫県明石市)の人であった、この二つが偶然一致したための三説があるという。


赤石村
あかいしむら

[現在地名]大館市真中まなか字赤石

大館盆地西部の河岸段丘上に位置し、北側を米代川、背後を引欠ひかけ川が西流する。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に新田とみえるが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄誤新田出」とある。「郷村史略」に「古城あり 屋敷構ひの地なり 浅利家の士赤石美作知行四十三石納戸役浅利分限帳ニ有りといふ者居せりとぞ」とあり、天文年間(一五三二―五五)の浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に「弐百刈 赤石美作」とある。


赤石村
あかいしむら

[現在地名]金浦町赤石

赤石川の河口に位置する。東は前川まえかわ村、北は金浦村、南は塩越しおこし村(現象潟きさかた町)に接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)仁賀保にかほ郷の一村として村名がある。

村の北方、赤石川右岸高台に赤石館跡がある。仁賀保氏の家臣赤石備中の居城といわれる。「由利十二頭記」に「天正十五年の六月仁賀保氏、鮎川氏中分にて矢島仁賀保和睦相調ふ。其悦の使者に仁賀保より矢島へ赤石与兵衛を被遣」とある。

慶長七年最上氏領、元和八年(一六二二)本多正純領、翌九年仁賀保挙誠領となり、高は三三〇石五斗九升八合であった(「仁賀保総高改」渡辺文書)

寛永元年(一六二四)仁賀保家分知に際し、良俊(七千石家)領となるが、同八年天領となり庄内しようない(現山形県)酒井氏預領となる。


赤石村
あかいしむら

[現在地名]古宇ふるう郡神恵内村大字赤石村

明治初年(同二年八月―六年の間)から同三九年(一九〇六)まで存続した村。神恵内村の北西に位置し、大森おおもり川・なかの滝・エドヤさわ川・二ノ目にのめ川が南西に流れる。珊内さんない岳や大森山の山裾が急傾斜の崖となって海に迫り、数条の滝がみられる。地名は「蝦夷日誌」(二編)によれば、「元フウレシユマ又はフレウシ等云しが、今は皆アカイシと呼也」と記される。


赤石村
あかいしむら

[現在地名]奥尻郡奥尻町字赤石・字湯浜ゆのはま

明治初年から明治三九年(一九〇六)までの村。釣懸つりかけ村の南に位置する。中央部の台地から東海岸へ赤石川が東流し、日本海に注ぐ。また西海岸の岸壁に発する幌内ほろない川が北境近くを東流している。奥尻島で最も高い神威かむい(五八四メートル)がある。村はアカイシ、ホロナイなどを含んで成立。「蝦夷巡覧筆記」に東海岸の「アカイシ、此処ゴロタ浜平山近ク木アリ」とし、西海岸の「ホロナイ、此所山近ク木アリ、幅三間位砂ハマ行」と記す。


赤石村
あかいしむら

[現在地名]南部町赤石

名久井なくい(六一五・四メートル)の北麓、馬淵まべち川右岸の河岸段丘に位置する。西から北へ馬淵川が蛇行して北東流する。東は八戸藩領高瀬たかせ(現名川町)、西南は大向おおむかい村、川を隔てて北西は沖田面おきたおもて村、北は玉懸たまかけ村に接する。慶長五年(一六〇〇)の南部利直知行状(九戸地方史)によれば「糠部之内三戸赤石村」などが楢山帯刀佐に給されている。雑書の慶安四年(一六五一)五月七日条に「三戸赤石村譜代之由ニて仙北ヨリ帰参候兵三郎」とみえる。


赤石村
あかいしむら

[現在地名]小松島市赤石町など

田野たの村の東に位置し、立江たつえ川が当地で小松島湾に注ぐ。天和二年(一六八二)の富田藩領地方帳に「田野村之内赤石村」とあり、高三八六石余が同藩領で、請四ツ、物成五四石余。同じく同藩領として「芝生ノ内赤石」とあり、請四ツ一厘、物成一八五石余、老若人数四四。「阿波志」や天保郷帳に記載がなく、不明の点が多いが、両村に属するということから村切外に置かれた地で、徐々に耕地が開かれていった可能性がある。


赤石村
あかいしむら

[現在地名]豊岡市赤石

下鶴井しもつるい村西部の北、円山まるやま川東岸沿いに位置する。玄武げんぶ(国指定天然記念物)の所在地。江戸時代の領主の変遷は駄坂ださか村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一八〇石余。宝暦六年(一七五六)村明細帳(阪井家文書)によれば高二三九石、小物成は山役米一石余・川役米一石・楮役米三斗九升・茶役米四斗六升余・刈畑役米一石六斗余・桑役銀一五四匁余、家数五九・人数二三七、鎮守は住吉大明神(現兵主神社)


赤石村
あけしむら

[現在地名]京北町大字赤石

弓削ゆげ一一ヵ村の一。大堰おおい川の支流田原たわら川上流にある山間集落。川の下流(西)田貫たぬき村、三方を山に囲まれ、東は山を越えるとさわ村。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より丹波篠山藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると高四三石余。


赤石村
あかいしむら

[現在地名]八尾町赤石

布谷ぬのたに村の南方、野積のづみ川左岸にある。正保郷帳に村名がみえ、村高は八十島やとじま村と合せて一五一石余、田方三町七反余・畑方六町三反余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高一五一石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高一〇二石。


赤石村
あかいしむら

[現在地名]谷汲村長瀬ながせ 赤石

長瀬村の南東、根尾ねお川右岸にある。慶長郷帳では長瀬村の内に含まれていた。正保郷帳に村名がみえ、大垣藩領で、田八一石余・畑四五石余。元禄郷帳でも同藩領。寛政一一年(一七九九)の届書(県立歴史資料館蔵)によれば、当村には石灰竈が二口あり、近郷や大坂に売りさばかれていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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